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古代ギリシャ

古代ギリシャ
パン, エロス,
マルシュアスの死刑
   過ぎ越し
アレクサンドロス大王
  シーザーズ
神ミトラ, クリスマス
コンスタンティヌス大帝
最初の本
競技者の頭
パン
パンとシュリンクス
ディオニュソス
アルテミス
アフロディテ
ミロのヴィーナス
エロス
ヘルメス
神マーキュリー
ゼウス
マルシュアスの死刑
過ぎ越し
最後の晩餐
メルポメネ
アレクサンドロス大王
セレウコス
プトレマイオス
 

音楽愛好家の観覧席の支柱の役割をしている、入り口に位置した腕のない4体の女性像カリアティッドが、現在この広間の名前になっています。.ここに展示されている幾つかの古代のレプリカは、聖書がテーマになっています。

                           

競技者の頭  MND 969   シュリーホール17
 

この頭は、競技の勝利者にかぶせられたリボンを着けています。西暦前776年、イザヤが預言を始めた頃、ギリシャ人はゼウスに誉れを帰し、有名なオリンピックのスポーツ競技を開始しました。宗教的な犠牲と聖火崇拝はこれらの祭りに肝要な部分で、都市国家間の真の関係は、政治的なレベルで分かたれました。ユダヤ人のギリシャ語学者達は、それらをパレスチナに伝えました。祭司たちは競技に参加するために、彼らの仕事を怠りました。-マカベ第二4:12-15。

                 
競技者の頭         円盤投げの選手  
                           

主要な種目として格闘技をともなうローマの競技は、たいへん異なっていました。それらはサルトゥルヌス(農耕の神)に捧げられました。暴力や残酷な行為以外の何物でもありませんでした。皇帝ネロのもと、数多くのクリスチャンがこれらの祭りの際に殺害されました。ティルトゥリアヌスは、これらの娯楽に対する初期クリスチャンの立場について述べています。「私たちが見たり、聞いたり、話したりする事柄は、円形競技場での狂気のさたや劇場での破廉恥な行為、闘技場での残虐行為などとは何の関係もない。
 

スポーツやそれを楽しむことを非としている箇所は、聖書のどこにもありません。使徒たちは教えを例証するために競技の特色をよく利用しました。罪を犯すことは、「槍投げなどで的を外す」というギリシャ語の元の意味から発生しています。(ローマ3:9,23脚注。使徒パウロがこの言葉を書いた際に、徒競走を念頭に置いていたことは明白です。「競争の走者はみな走りはしますが、ただ一人だけが賞を受けることを知らないのですか。あなたもそれを獲得するような仕方で走りなさい。」-コリント第一9:24
 

競技に参加する資格を得るには、たいへん厳しい数々の条件を満たさなければなりませんでした。規則に違反した者は、出場資格をはく奪されました。これらの情報は、次の指摘を理解する上で助けになります。「競技で闘う場合でさえ、規則にしたがって闘ったのでなければ冠は与えられません。」(テモテ第二2:5) 自制は厳しい訓練の報いです。この徹底的な訓練は「使うことによって自分の知覚力を訓練した人々」という表現の中に示唆されており、字義的には「感覚器官が体育家のように訓練されてい」ます。-ヘブライ5:14、

                           
   

クロトナのミロ  MR 2075

  赤像式聖杯、内側 :  競技者  G 92

                           

クリスチャンの競争も忍耐を試されます。徒競争の際、競技者たちは体を素早く自由に動かせるように、何も身にまといませんでした。パウロはこう考察しています。「あらゆる重荷を捨て、自分たちの前に置かれた競争を忍耐して走ろうではありませんか。私たちの信仰の主要な指導者イエス・キリストを一心に見つめながら。」-ヘブライ12:1,2 
 

最後に聖書は、スポーツの適正な位置を教えています。「体の訓練(体育家としての訓練、ギリシャ語でギュムナシア)は少しの事には益がありますが、敬虔な専心はすべての事に益があるからです。それは、今ある命と来るべき命との約束を保つのです。」-テモテ第一4:8 脚注.
 

そして

献酒を行なっている競技の勝利者  Br 4236  ドゥノンホール 3展示30

クロトナのミロ  MR 2075   リシェリューピュジェの中庭

円盤投げの選手  

円盤投げの選手    G 111,G 292ュリー 1er  カンパナホール43

赤像式聖杯、内側 :  競技者  G 92   シュリー1er ホール 46展示13

                           

パン  Ma 266

  シュリー カリアティッドホール17

 

ここでパン神は、岩に腰掛け、野ウサギを捕まえやすいように先端が曲がった棒をもって表わされています。

この大理石の彫像はパンが羊飼いダフニスにフルートを教えている様子を表現している古代レプリカのシリーズに属しています。

パンはもともと牧羊の神で、アシの笛が付き物の音楽家の神の一人でもあります。
 

豊穣の神で、ヘルメスと一人のニンフの間のこの息子は、特に獣のような飽くことを知らない性欲で知られています。

彼の伝説上の恥ずべき行為のため、多くの場合彼は拒否されました。 彼が抱かせた恐れは、パニックという語の元となっています。

彼は、もみあげとヤギの角をした男として表されています。

                           

ヘロドト(二世、46)によると、パンの崇拝はヤギの崇拝が一般的だったエジプトで生じました。やぎの形をした悪霊たち」という表現は、恐らくこの形態の異教の崇拝をほのめかしています。(レビ17:7、歴代第二11:15。ある人々によれば、半人半ヤギのこの神と、イタリアの詩人アリギエーリ・ダンテの作品「地獄編」3は、中世のアーティストたちの想像力、角と先のとがった尾を持つ悪魔の着想に影響を与えました。
 

このような表現はむしろ、聖書が何度も現実の存在として述べている、この霊の存在に疑いを抱かせる可能性があります。「蛇」と呼ばれ、またむさぼり食う「龍」という象徴的な表現がなされていようと、聖書には全く悪魔の身体的な記述はありません。-啓示12:9

パン 

別の彫刻はまた、パンが愛の女神アフロディテに言い寄っている様子を表現しています。

エロスが翼をはばたかせ、彼らの上を飛び回る ― まさしく今日の聖バレンタインのカードにあるキューピッドによく似ています。
 

このクリスチャンの殉教者の名を持つ祭日に結びついた種々の習慣は、古代ローマの乱痴気騒ぎの祭りに由来します。

この祭りは半人半ヤギの特徴で表された神、ファウヌスの崇拝に関連しています。

 
            パンとシュリンクス  RF.1949 

それは毎年2月15日に祝われ、ローマの女性の女神ユノと自然神パンがたたえられました。 この異教の祭りにキリスト教的な意味を与えるため、496年、法王ゲラシウスは2月15日のルペルカリア祭を2月14日の聖バレンタイン・デーに変えました。しかし、古い祭りの感傷的な意義は現在に至るまで残っています。
 

パンとシュリンクス  RF.1949 RF.1979  シュリー 2eホール 25

パン  CA 808   シュリー 1er 階ホール36展示11

テーマはオビドのメタモルフォーゼから採られました。パン神は彼が愛したニンフ、シュリンクスを追い回しています。シュリンクスは、彼から逃げるためにアシに姿を変えた父のもとに逃れます。それからパンは、アシの枝で笛を作りました。

                           

ディオニュソスと四季  MR 720    シュリー カリアティッドホール 17
 

大理石のこのレリーフでは、ひげを生やしたディオニュソスが季節を擬人化した4人の若い女性の行列を率いています。春の寓意は服のすそに花を入れており、夏は稲穂を持っています。冬の像は欠落しています。 ローマ人にバッカスと呼ばれているディオニソスは、ギリシャ神話の中でぶどう酒と植生の神です。彼は、一般的にアッティカの器に角の形をした杯と、ティアズ(thyrse)  松かさの上に乗った棒を身に着けて描かれています。彼はまた、マイナデス、サテュロス、シーレーノスと彼らのお気に入りの仲間たちで構成された行列、劇場を生み出したティアソスを伴って描かれることもあります。
 

ギリシャ人は、バビロニアの神タンムズやエジプトのオシリスと同一視された、ディオニュソスの非業の死と復活を祝いました。バッカスを祝ったお祭り騒ぎは、浮かれ騒ぎ(ギリシャ語 コーモス)の典型的な型でした。コーモスという語は、ギリシャ語聖書中に3回出ており、いずれの場合も好ましくない意味で使われています。(ローマ13:13、ガラテア5:21、ペテロ第一4:3) バッカス祭とカーニバルの祭りの間で、数々の類似点が明らかにされています。ギリシャ人は、聖なる男根像を揚げて持ち、叙情的な歌を歌う一団の人々によってもようされた光景をコーモスもしくは娯楽と呼びました。コーモイスという語は、宴楽の神コーモスに由来します。コーマステースの名は、これらみだらな酒神祭に与えられました。

                           

ディオニュソスと四季  MR 720                  

Ср  389

ディオニュソスと四季
 

それに加え、カーニバルは放逸な自由をその特徴としており7、カーニバルという語自体がその異教の起源を思い起こさせます。カーニバルは、カルルス・ナバリスつまり海の馬車、すなわちディオニュソの行列で用いられたボートの形をした乗り物から来た言葉、もしくは角(carn)が抜け落ちる(avale)時を意味しています。祭りのつかの間の期間を具現化し、最後には一般の人々の前で撃たれる道化人形は、古代異教の祭りの終わりにこれもやはり殺された、サターンの古来の王と非常によく類似しています。

                           
   
酔ったシーレーノス MR 343    Cp 9641   G 407
                           

キリスト教化にかかわらず、カーニバルの祭りとディオニュソスをたたえたこれら異教の祭りとの間の共通点は、確かに現実のものです。特に以下の作品もご覧下さい。
 

酔ったシーレーノス MR 343   シュリーホール17 

ここで自然の霊、デオニュソスの仲間の年老いたサテュロス(シーレーノス)を見ることができます。はげた頭、やぎの耳、猿のような顔、豊かなひげ、つたとハイブッシュブルーベリーの冠が特徴です。
 

タンバリンを持ったディオニソスの巫女  RF3025   ピュジェ中庭

ディオニソスの仮面  シュリー 1er ホール 36 展示18(10)
 

彫像の壺 : しゃがんだコマスト  Cp 9641     シュリー1er ホール36 展示 5(1,2)

これら造形芸術の器は、コマスト、祝宴に参加したディオニソスの行列の陽気な人々を表現しています。彼らの内の一人は、野うさぎを背負っています。
 

ディオニュソス信仰  G 407   シュリー1er ホール39 展示8

成人男性の象徴である、聖なる男根像に注目してください。

                           

女鹿を持つアルテミス、通称「ベルサイユのディアナ」   MR152   シュリーホール 17
 

ギリシャの狩猟の女神で、ローマ人にディアナと呼ばれているアルテミスは、よく弓を身に付け、女鹿を伴って表現されています。月の女神のような外観は、その頭を取り巻いている星や月によってときどき示されています。彼女はここで、走りやすいように膝までまくり上がったチュニックを身に付けています。ヘンリ2世のために建てられたホールの中央に置かれたこの彫像は、王の愛人ディアヌ・ドゥ・ポワチエのほのめかしです。
 

エフェソスのアルテミスは、ギリシャのそれと同一ではなく、幾分似ていたにすぎません。(使徒19:27。ギリシャの処女のアルテミスとは対照的に、多産の女神であり母神の一人でした。有名なエフェソスのアルテミス像の1つは、顔や手足が真っ黒です。彼女に奉献された大きな神殿は世界の七不思議に数えられました。重要な商業が彼女の崇拝の周りに据えられました。
 

「エフェソス人の偉大なるアルテミス」(使徒19:28)と他の諸国民の主だった女神たちとの緊密な関係が明らかになっています。アルテミスはフリギアのキュベレのほか、アジア諸国の他の女神像(カバドキアのマ、フェニキアのアスタルテ、シリアのアタルガティスやミリタ)と非常によく似たところがあり、これらはみな1つの根源的な宗教概念の変形にすぎないように思われます。神々の母のすべての属性とバベルの塔と呼ばれる王冠をかぶって表わされています。
 

エフェソスは異教の母神崇拝のるつぼで、キリスト教化され、「神の母」としてマリアに熱心な献身を捧げるよう変化させられました。使徒パウロが後の背教を予告したのは、エフェソスのクリスチャンに対してでした。(使徒20:17-30、テサロニケ第二2:3 脚注。西暦431年に、エフェソスで行なわれた第三回公会議は、マリアをギリシャ語で「神を生んだ者」を意味する「テオトコス」と宣しました。教会がこの称号を用いたことが、マリアの教理の発展に決定的な影響を与えました。聖母被昇天の祝日の行列は、キュレベやアルテミスをたたえる行列が原型になっています。
 

以下もご覧下さい。

                           
       
 

アルテミス
 

   

エフェソスのアルテミス

 

エフェソスのアルテミス    CA 1202     Sully 1er salle 37展示1(3)
 

女神の身体はぴったりとしたチュニックで覆われており、多産の象徴である何列もの乳房もしくは牛の睾丸で飾られました。高いカラトスがかぶせらています。
 

王座に座るキュベレ  CA 1797    Sully 1er salle 36展示18(5)
 

小アジアのフリギアで生まれた女神ラテン名キュレベは、ギリシャ人にレアという名で知られています。タイタン(巨人)クロノスの妻で、神々の偉大な母としてローマで崇敬されました。彼女はたいてい両側にライオンが付き添った王座に座しています。その崇拝は、コリュバスと呼ばれる去勢された祭司たちによって執り行われました。

A・ヒスロプは、一般的に崇拝されているこの母神崇拝の起源は、バビロンにさかのぼると述べています。母の日は「古代ギリシャで行なわれた母親崇拝に由来します。キュベレをたたえる儀式を伴うその崇拝は、小アジアの至る所で3月15日に見られ」ました。

                           
       

アフロディテ

アフロディテ、通称「ミロのヴィーナス」
 

アフロディテ  MR 369 ,MR 371-2      シュリーホール 17
 

アフロディテはギリシャ神話の中で愛と美の女神で、ローマ人にヴーナスと同一視されています。彼女自身恋多き女神で、神々や人間の恋の行方に良いようにも悪いようにも影響を及ぼします。アフロディテは「アッシリア・バビロニアのイシュタルと、シリア・フェニキアのアスタルテの姉妹」と見なされています。
 

以下もご覧下さい。
 

アフロディテ、通称「ミロのヴィーナス」Ma 399
 

様々な方向に向けられた体のらせん形の構成、上半身の素晴らしく繊細な外観、腰に滑り落ちた衣は、このヴィーナスをヘレニズム時代後期の傑作の1つにしています。これはアフロディテ、もしくはギリシャ語でミロと呼ばれる島で崇拝されていた海の女神アンフィトリテを表現しているかもしれません。この彫像はこの島で1820年に発見されました。

         

 エロス  

         

エロス  MR 141   シュリーホール17
 

ローマ人キューピットと見なされているエロスは、ギリシャ神話の中で愛の神です。翼のある子供、時には目隠しをした様で描かれています。はよく神々や人間のハートに矢を射る弓を持っています。この像はエロスに関連した一連の表現に属しています。彼の母アフロディテが自分の姿を盾に映し、ここで神が励ましています。
 

ギリシャ語聖書の中で「愛」と表現されている語は、4つの異なる語に訳されます。エロスは異性間の愛情を意味しています。この種の愛は聖書中に言及されていますが、エロスという語は本文中に出てきていません。(コリント第一7:2-5)。フィリアは友に関連した愛情で(ヨハネ21:17、脚注)ストルゲーは家族愛を表わしています。

                     
   
                           

アガペ愛は、他の語に比べギリシャ語聖書中にひんぱんに(250回)出ています。それは個人の関心という概念すべてを排除する幾つかの原則への執着に現われます。神はまさに愛を具現した方です。(ヨハネ第一4:8)原則に導かれた愛のこの面は、霊や行動に裏打ちされた断固たる意思より、衝動の介入を少なくします。この愛の優位性は、真のクリスチャンの特徴です。「あなた方の間に愛(アガペー)があれば、それによってすべての人はあなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。-ヨハネ13:34,35

サンダルを履くヘルメス

サンダルを履くヘルメス  MR 238     シュリーホール17
 

ギリシャの神でローマ人にメルクリウスと同一視されているヘルメスは、神々の使者と見なされています。古典芸術の中では、筋骨たくましくひげのない若い男性の姿をしています。彼の子供たちの中で最も有名なのがパンです。ルーヴルのこの複製は、たいへんよく復元されています。
 

西暦1世紀、ルステラの人々はパウロとバルナバを神々だと思いました。「彼らはバルナバをゼウス、またパウロのほうを彼が先に立って話していたので、ヘルメスと呼びはじめた。」(使徒14:8-13、脚注)。パウロをヘルメスと見なしたことは、ヘルメスが能弁の神であるという彼らの概念と調和します。ヘルメスがルステラの人々によって崇拝されていたことが、その付近で見つかった碑文から分かっています。以下もご覧下さい。

                           
       
    MR 238         RF 3023    


小翼をつけたマーキュリー  RF 3023    シェリュー プジェ中庭
 

ここでヘルメス神の左手に持った杖の一部と、かつて頭に固定された失われた小翼のためのくぼみを識別できる。

         

ゼウス

         

ゼウス  Br 158

  シュリーホール32展示C2
 


天空の神で、オリンポスの神々の主権者。

ローマ人によってジュピターと同一視されています。

パウロが囚人として出帆した際に乗っていた船には、「ゼウスの子ら」つまり双子の兄弟カストルとポリュクスの船首像が付いていました。(使徒28:11)。

   

ゼウスの頭  CA 399  

  シュリーホール37展示1


YHWHの崇拝は、ゼウスの崇拝と真っ向から対立しました。

王アンティオコス4世(エピファネス)は、ユダヤ人の宗教を撲滅しようと企て、エルサレムの神殿を汚してオリンポスのゼウスに献納し直すように命じました。

-マカベア第二6:1,2

 

ギリシャ神話を考慮する際に考えうる、いやもっともとさえ思える起源を解明するのに聖書がどのように光を当てているかに注目するのは興味深いことです。創世記6:1-13によると、大洪水の前、み使いであった神の子たちが地上に生存しました。彼らはネフィリム、もしくは「倒す者たち」を生み出しました。自然に反した霊の被造物と人間のこの結びつきのために、地は不道徳と暴力で満たされました。(ユダ6、ペテロ第二2:4)。大洪水後の時代の他の人々と同様、ギリシャの民族の先祖のヤワンも、大洪水前の時代について聞いていたに違いありません。
 

ホメロスやヘシオドスの作と見なされる記述は、誇張され粉飾されゆがめられていますが、創世記の記述の反映なのかもしれません。これらの伝説は、人間の形をしたたいへん美しい、しかしながらしばしば暴力的で、残忍な数多くの男神や女神の不倫な愛について述べています。別の驚くべき類似点は、主要な神々の他に、半神半人、超人的な力を持ち、死すべき者に言及しているということです。
 

聖書の記述のネフィリムと著しく類似しているところがあります。ジョージ・ラウリンソンはこう結論しています。「ギリシャとローマのパンテオンの中には、カルデアの神々のように同じ一般的な集合と、たびたび同様の家系の相続が認められる。類似点はかなり広範囲で、この一致はそれを純粋な偶然にしている。」この基本的な類似点に注目した東洋学者E・スパイサーは、ギリシャ神話のテーマをメソポタミヤまでたどりました。メソポタミアは、バビロンの所在地でしたし、人間の言語が混乱させられた後、人類がそこから広がった中心地でした。-創世記11:1-9

       

マルシュアスの死刑

       

マルシュアスの死刑  MR 267   シュリー カリアティッドホール17
 

Le silène  マルシュアス オサは、音楽の競演でアポロン神に挑戦します。敗北した彼は刑を宣告され、生きたまま皮をはがれます。マツの幹につるされるというぞっとする懲罰が待っています。この彫像は、イエスの処刑に関して用いられた語の正しい翻訳を物語っています。「もし神の子なら、苦しみの杭から下りて来い!」-マタイ27:40(もしくは「十字架」Lienart, Segond )犯罪者をつけるための一本の杭は、ラテン語がクルクス・シンプレクスと呼ばれました。西暦1世紀のローマの歴史家リビウスの著書の中では、クルクスは普通の杭を意味しています。
 

十字架と訳されているギリシャ語のスタウロスは、最初まっすぐな棒(柵の道具)、パル(アッシリア人やペルシャ人にすでに用いられていた)、もしくは犠牲者がつるされた杭を意味しています。使徒ペテロとパウロも、イエスがくぎづけにされた苦しみの刑具を指すのに、まっすぐな杭を意味するクシュロンという語を用いています。「キリストはわたしたちの代わりにのろわれた者となり、こうしてわたしたちを(…)釈放してくださったのです。『杭にかけられる者は皆のろわれた者である』と書かれているからです。」(ガラテア3:13)。申命記(21:23)の書のこの引用の中で用いられている語「エーツ」はもともと木もしくは木の柱を意味します。

                           
       
  マルシュアスの死刑     聖デニスの聖壇画  
                           

ヘブライ人は伝統的な十字架を表わす語をもっていませんでした。七十人訳のエズラ6:17にクシュロンという語(アラシア語、アー)が出ており、そこでは律法違反者が掛けられる一本の梁として述べられています。数多くの新約聖書の翻訳が、ペテロの言葉を次のように表現しています 。「わたしたちの父祖の神はイエスを、あなた方が杭に掛けて殺したその方をよみがえらせました。」この語は他の翻訳によって「木」と訳されています。(欽定訳、改訂標準訳、エルサレム聖書、ドーウェ訳、口語訳)
 

このように、伝統的な十字架を意味する元の語はないとはっきりと断言できますし、それに加えこの宗教的シンボルは、キリスト教よりずっと以前に異教徒によって用いられていました。このことは、贖いとしてのイエスの死は、聖書の重要な教義であることを物語っています。-ヨハネ3:16;マタイ20:28、脚注

                           

以下もご覧下さい。
 

聖デニスの聖壇画  MI 674  (T型の十字架)     リシェリュー 2è ホール

キリストの受難   inv 1296  FRANCKEN(1630 年頃)  リシェリューホール
 

フランケンは1630年頃、天使たちと4人の使徒たちが見守る中、二人の泥棒の間で十字架に掛けられたキリストを描きました。Tの形をした十字架やラテン十字架、2本もしくは3本の棒の十字架が出現しました。(62ページを参照)

贖い主であるキリストの死の描写は、1世紀の象徴美術には存在しませんでした。旧約聖書中に収められた禁止令に影響され、初期のクリスチャンたちは主の受難の道具を表現するのを拒みました。大半の学識豊かな人々は、コンスタンチヌスの時代以前に十字架が象徴として用いられていないという意見で一致しています。キリスト誕生よりもずっと昔から、またそれ以後も、教会の教えが伝えられていなかった種々の土地で十字の印が神聖な象徴として用いられてきたのは、不思議とはいえ疑問のない事実です。
 

キリストのバプテスマ C.van HAARLEM  RF.1983-25   リシェリュー2eホール13

キリストのバプテスマ   RF. 2642-2641    リシェリューRdcホール33展示2
 

キリストの死は、彼のバプテスマと密接に結びついています。(ローマ6:3)。挙げられている作品は、すべて聖水散布によるバプテスマを表わしています。ところでバプテスマという語は、沈めるもしくは浸すという意味のギリシャ語の動詞「バプトー」から派生しています。「イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマ(浸す、Chouraqui)を受けられた。そして水から上がられてすぐ、天が分かれ(た)」。-マルコ1:9,10
 

大半の典礼書は使徒たちの時代以降15世紀まで、浸礼(水の中に完全に浸す)という方法でバプテスマを受けたことを認めています。秘跡と見なされた古代の清めの象徴水のバプテスマは、異教の体制の中にも見いだされます。ヒスロプによれば、注入もしくは盛聖水散布による洗礼の再生の教義は、根本的にはバビロンのものです。

                           
     
Nicola Poussin inv 7287     Rude RF 2672  
 

ポンペイア ルシリアの奉納の脚部  AO 5061    
 

サンダルを履いたこの右足の一部分が、ギリシャ語の次の碑文の上にあります。「ポンペイア ルシリアが捧げた」。A.パロットの表現によれば、この作品が発見された場所がベツサイダの池に関する福音書の一節を思い出させます。(ヨハネ5:1-9)それはまた、その存在が奇跡的な特性の水源を授けた病気治癒の神への捧げ物を表わすかもしれません。数々の考古学の発掘で、エルサレムの神殿の山の近辺で多数の浴槽が見つかりました。それらの浴槽は、ユダヤ人が清めの儀式をするために用いられました。クリスチャンのバプテスマは、ユダヤ教がその起源ではありません。一度かぎり全身を水に浸すことは、自らを捧げ「神に対して正しい良心を願い求めること」のふさわしい象徴です。-ペテロ第一3:21

       

Пасха

       
 

過ぎ越し  N 1150

 

リシェリュー2階スジェホール2展示3

 

このエナメルに彫金されたこのプレートは、一人のイスラエル人が戸口に子羊の血で印をつけている様子を描いています。この作品はモーセの時代のイスラエルの救出と「これはYHWHに対する過ぎ越しの犠牲であって、神はエジプト人に災厄を下された際、エジプトにいたイスラエルの子らの家々を過ぎ越した」ことを思い起こさせます。
-出エジプト記12:27
 

10番目の災いの際に、ヘブライ人たちは羊を殺してその血を家の戸柱と戸口の上部に塗りました。次いでこの救出を祝うために、セデルを見守らなければなりませんでした。

「この日はあなた方のための記念となり、あなた方はYHWHに対する祭りとしてこれを祝わなければならない」。-出エジプト記12:14

 

                           

律法に含まれている「来るべき良い事柄の影」(ヘブライ10:1)の中でユダヤ人の過ぎ越しの祭りに匹敵するものはありません。過ぎ越しの子羊はイエスの犠牲を予告していました。使徒パウロは、イエスのことを「犠牲にされた私たちの過ぎ越し」と呼んでいます。-コリント第一5:7 
 

この祭りのフランス語の名から、ユダヤ人の過ぎ越しがキリスト教化されたものであるように言われていますが、そうではありません。「このパンを食べ、この杯を飲むたびに、あなた方は主のをふれ告げてゆくのであり、それは彼が到来するときにまで及びます」。(コリント第一11:26)新約聖書の中で、キリストの復活の祝いとしての過ぎ越しの祭りを祝うという痕跡はどこにも見い出せません。復活祭は、キリスト教以前の時代の数多くの慣習の1つの集大成です。春の再生を祝う多くの古代の習慣が、この祭りに結びついています。卵は生命の象徴であり、ウサギは異教の象徴物で、常に多産のシンボルです。A.ヒスロップによれば、イースターはイシュタルもしくはアスタルテという天の女王の称号であるゆえに、復活祭(英語でイースタ)という名称自体がバビロニアにその起源を有しています。

       

キリストの最後の晩餐

       

キリストの最後の晩餐   INV1124   シュリー2èmeシャンペニュホール31
 

聖なる晩餐のさい、イエスは弟子たちに彼を思い起こすようパンを食べ、ぶどう酒を飲むように告げられました。この命令は聖餐式の起源であり、このようにキリストの犠牲を再現するキリスト教の主な儀式です。この教義は、プラトン哲学の影響下で幾世紀もかけて発展してきました。相違はこの祭りの日付けに明らかになりました。

                           
Champaigne inv 1124 Mathieu Le Nain  RF 2824
                           

ローマの皇帝コンスタンティヌスによって西暦325年に開かれたニケア会議は、復活祭は満月の後の最初の日曜日に祝われると決められました。アジアのクリスチャンたちや後のクオートデシマンたちは、使徒の慣習とイエスの死を記念したユダヤ人の過ぎ越しの日付、毎年ニサン14日の満月の夜を忠実に守りました。イエスは使徒たちと共に過ぎ越しの食事をされた後(マタイ26:17-30;マルコ14:12-16)、彼らにこう命じられました。「わたしの記念としてこれを行ない続けなさい」。(ルカ22:19)こうして彼は「主の晩さん」(コリント第一11:20)とも呼ばれる、彼の犠牲の死の記念を制定されました。これは、イエスが行なうよう命令された唯一の年間の宗教的な祝いです。クリスチャンたちは今日においてもなお、この使徒たちの模範に倣っています

アレキサンダー大王

 

通称ヘルメス・アザラ アレクサンドロス大王の肖像


シュリーカリアテッドホール Ma 436


 

このヘルメス(支柱の上方の部分は頭部の形に彫刻されている)に刻まれた古代の碑文は、マケドニアの王フィリップの息子、アレクサンドロス大王であると確実性をもって同一であると言えます。

特に、額の上を覆った房状のライオンのような髪型でそれと分かります。

アレクサンドロスが統一した王国に関して、聖書はその王国が分裂し、分割されるが「彼の後裔には帰さない」(ダニエル11:3-4)と予告しています。

西暦323年に彼が亡くなった後、嫡出子のアレクサンドロス4世と庶出の子ヘラクレスは暗殺され、アレクサンドロスの帝国は彼の4人の将軍の間で分割されました。

 

イエス・キリストによりその信ぴょう性が確証された(マタイ24:15)、ダニエルの書の別の預言的な幻も成就しました。それは「1頭の雄のやぎ、ギリシャの王、その目の間にあった大いなる角は、第一の王である」というものです。(ダニエル8:5,20-21)預言は「それが強大になるや、その大いなる角は折れ、その代わりに(...)4つの角が生えて、点の四方の風に向かった」と述べています。-ダニエル8:8

約200年ほど前に書かれた特筆すべき出来事は、再度次の事を確証しています。「聖書の預言は、どれも個人的な解釈からは出ていないということです。なぜなら(...)人が神の聖霊に導かれつつ、神によって語ったものだからです」。-ペテロ第二1:20-21

                 
アルベラの戦い  INV 2895  LE BRUN アレクサンドロスのバビロンへの凱旋 inv 2898  LE BRUN
                           

アレクサンドロス大王、通称アレクサンダーギメ   MA 3499(204)

ヒエログリフに書かれたアレクサンドロス大王の名前  E 30890

アレクサンドロス大王 

アルベラの戦い  INV 2895   リー2èル・ブルンホール32

イスの戦い  Jan Brueghel   inv 1094   リシェリュー2èホール14
 

ル・ブランは、マケドニア人に武運が傾き、巨大な戦車に乗ったダリウスが。まさに逃げようとしている瞬間を表現しています。アレクサンドロスの後方で、占い師アリスタンデルは兵士たちに、勝利の前兆と王子の上を飛ぶ鷲に注意を喚起しています。

ペルシャの皇帝ダリウス3世の統治は、ニネベに近いガウガメラでアレクサンドリア大王との会戦で大敗北を被った西暦前331年に突然終わりを迎えました。この敗北は、ネブカドネザルが夢の中で見た像の銀の部分で象徴された、メディア・ペルシャ世界強国の衰退を示しました。-ダニエル2:32,39
 

アレクサンドロスのバビロンへの凱旋  inv 2898  LE BRUN ,    シュリー2ème ホール32 
 

2頭の象に引かれた二輪戦車の上に立った征服者アレクサンドロスが、バビロニアに入城している場面です。その背景には宙に浮いたような庭園のあるテラスが見えます。

                           
   

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セレウコス1世ニカトール  MND 2272   

 

セレウコス1世ニカトール  MND 2272

シュリーカリアテッドホール17


 

アレクサンドロス大王の4人の将軍の1人で、西暦前323年にアレクサンドロス大王が急死した後、メソポタミアとシリアを所有しました。

 

 

この肖像彫刻がセレウコスであるという鑑定は、ずっしりとしたヘルメットをかぶっているように見える、君主の描かれた硬貨との比較に基づいて行なわれました。 彼は最初の「北の王」です。彼が築いたセレウコス朝は、西暦前64年までシリアで権力を保ち、ダニエルの民の土地の地理的な地位である南の王プトレマイオス・ラゴス朝に抵抗しました。-ダニエル11:4,5

 

プトレマイオス1世ソーテール MR 457 

ドゥノンスフィンクスの宮廷Rdcホール31

 

アレクサンドリア大王の4人の将軍の1人で、大王の死後エジプトとその近隣の土地を手に入れました。この彫刻肖像は、恐らく彼の肖像の刻まれた硬貨との比較によってプトレマイオスであると見なされています。
 

最初の「南の王」(ダニエル11:4,5)で、彼が築いたプトレマイオス王朝は、ユリウス・カエサルの甥の息子オクタウィアヌスに倒される西暦前30年まで、エジプトに対する支配を続けました。ヘロデが残忍な布告を出したため、ヨセフとマリアは幼子イエスを連れて、このローマの属州へ逃げました。

ヘロデの死後、戻って来たので「エジプトからわたしは自分の子を呼び出した」というホセアの言葉が成就しました。-マタイ2:14,15

 
                   
   

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Carte エジプト- 1階古代ギリシャ - ホール22から30