ドミティウス・アエノバルブスの浮彫  LL 399     ドゥノンホール   22
 

この巨大な/大規模な4つのプラックの集合体3つはグリュプトテークミュンヘンに保存されており、ナポレオンの叔父であるカーディナル・フェシュが所有していました。これはローマ芸術にたいへん特有の、歴史的な性質の表現で知られる最初の例の1つです。ルーヴルのこの絵は調査の様子を示しています。
 

この絵からローマ共和国に不可欠な要素を見い出せます。左側の祭司は、それぞれの市民が誓いの形で行なった財産の申告を記帳しています。戦いの神マルスをたたえる清めと犠牲の慣習を受け継いでいます。

                           
                           

それぞれの兵士の大きな盾に注目してください。楕円形もしくは長方形の形をしており、体の大部分を保護しました。使徒パウロが「信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって、邪悪な者の火矢をみな消すことができます。」(エフェソス6:16)と勧めたとき、この保護武具のことをほのめかしているようです。
 

クリスチャンはしばしば「キリストの兵士」(テモテ第二2:3)になぞらえられており、霊的な戦いを行なっています。それは「邪悪な霊の勢力に対するものだからです。このゆえに、完全にそろった、神からの武具を取りなさい」。-エフェソス6:13(「武具」、武具一式を読んでください。)
 

渦巻装飾の広口の壺 B面:重装歩兵  G 482  シュリー1erホール 43  展示12

武具106ページ

アウグスツス

アウグスツス  MR 99    デノンホール 23
 

ローマの最初の皇帝で、本当の名前はカイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィウスといい、聖書の中で名前が言及されている3人のカエサルのうちの1人です。ユリウス・カエサルのように、アウグスツスは彼の肖像で知られています。ここに展示されているものは、完璧なギリシャ彫刻の影響を反映しています。恐らく西暦前30年から20年の間に作られました。この肖像は、現代にトーガをまとった像(とがった折り目と衣服の様々な部分に見られる明らかな相違から西暦2世紀中ごろに作られたと思われる)と組み合わされました。
 

アウグスツスは、ユリウス・カエサルの養子で相続人であり、彼の暗殺に続いた激しい戦いの後、ローマに平和と秩序、繁栄をもたらしました。彼は共和制を尊重しつつも、君主体制を確立します。アウグスツスは「ローマは煉瓦の都市だったが、自分はそこに大理石の都市を残した」と自賛しました。彼は後にポンティフェクス・マクシムスという異教の称号を受けます。 ローマ人はこの皇帝に「高められた者,神聖な者」を意味する「アウグスツス」の称号を授与しました。彼は死後に元老院によって神格化されました。

                           
   
  MR 99       Bj 1839       Cp 6363  

西暦前2年に「人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから出た。(…)もとよりヨセフも(…)ガリラヤからユダヤに入り,ベツレヘムと呼ばれるダビデの都市に上った。(…)マリアと共に登録をするためであった」。(ルカ2:1-5)このようにして、イエスは聖書の預言の成就としてベツレヘムで生まれました。(ダニエル11:20、ミカ5:2)多くの人は、イエスが12月25日に生まれたと考えています。

しかし、ローマ皇帝が、すでに自分に反抗する傾向のある人々に,登録のため冬のさなかにそのような旅行をするよう求めたとは考えられません。イエスは秋の初めごろにお生まれになったようです。1年のうちの1つの月(8月)は、アウグスツスの名から付けられました。
 

アウグスツス  OA67 12番目のカエサルの上半身  リシェリュー1erホール23

アウグスツス皇帝  Cp 6363,MA 1247 ,MR 426      ドゥノンホール 23

アウグスツス皇帝   OA 1985   リシェリューホール14 展示b2

アウグスツスのカメオ Bj 1839   ュリー1erホール33 展示9

パレスチナのカイザリアの杯  Br 4391   この青銅の杯は、カエサル・アウグスツスに敬意を表して築かれた、たいへん重要な港町カイザリアの建設を祝うもので、使徒たちの活動の記録でしばしば言及されています。

ティベリウス皇帝     

ティベリウス皇帝  Ma 1255    ドゥノンホール   23
 

2番目のローマの皇帝ティベリウスは、アウグスツスの三番目の妻リウィアの長男です。このティベリウスの肖像は、アウグスツスがティベリウスに権力を与えたも同然だった、西暦13年に作られた「インペリウム・マジュス」のタイプの肖像です。彼の統治中にイエスは宣教を開始され、死に処されました。「ティベリウス・カエサルの治世の第十五年(…)の宣言が荒野においてゼカリヤの子ヨハネに臨んだ。それで彼は(…)悔い改めの[象徴としての]バプテスマを宣べ伝えた。

                           
 

さて,民が皆バプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった」。-ルカ3:1-3,21

西暦14年9月17日、アウグスツスの死後から1ヶ月、ティベリウスは元老院が自分を皇帝に指名するのを許しました。

この歴史的な基準点(手がかり)は、西暦29年をメシアの出現の年と見なすことを可能にします。

ダニエルの預言も、この出来事の明確な時をたいへん厳密に予告していました。(ダニエル9:25) 。

想定されたティベリウスの堕落は、彼の悪評の原因になりました。

聖書研究者たちは、彼が「北の王」として立ち上がる「軽んじられた者」であり、その統治下でイエス・キリスト「契約の指導者が砕かれ」たと見ています。
-ダニエル11:15,21-22

                           

このカエサルこそ、イエスを訴えた際に祭司長たちが王として認めていた人物です。(ヨハネ19:15)これら宗教指導者たちにとって、「この男(イエス)がユダヤ国民をかく乱し、カエサルに税を払うことを禁じ、自分は王キリストだと言って」いました。(ルカ23:1,2)この三重の非難のうち、ティベリウスが特に敏感だったのは、彼らがイエスを大逆罪、すなわちローマ人の表現にしたがえば、クリーメン ラエサエ マーエスターティス(レズ・マエスト)のかどで訴えたことでした。これはまた、イエスのもとに持ってこられた税の硬貨に彫刻されたティベリウスの肖像です。
 

イエスは「これはだれの像と銘刻ですか」と尋ねられ、彼らは「カエサルのです」と答えます。そこでイエスは「カエサルのものはカエサルに、しかし神のものは神に返しなさい」と言われます。(マルコ12:15-17)西暦15年ごろ流通していた、ティベリウスの頭像のあるデナリ硬貨は、大英博物館に展示されています。ヘロデに関しても以下をご覧ください。
 

ヘロデとサロメを描いたステンドグラス    リシェリューホール 24 展示7

円形の時計:ヘロデ、ヘロデアとサロメ     シュリー1er ホール 48 展示7
 

              聖バプテストのヨハネの装飾   RF 196

聖バプテストのヨハネの装飾    

ドゥノン 1er ホール3展示1

ヘロデ大王の息子で、ガリラヤ地域のこの支配者(ルカ3:1)は、ティベリウス・カエサルの好意を得ます。

ヘロデアとの不道徳な結婚は、バプテスマを施す人ヨハネの非難を招きました。ヘロデの誕生日の祝いの際、サロメにした誓いを果たすため、バプテスマを施す人ヨハネを打ち首にしました。(マタイ14:6-11)

イエスをピラトに送り返す前に、彼に鮮やかな衣を着せて愚弄したのもこの人物です。-ルカ23:8-12

 
 

聖書は誕生日の祝いを好ましくないものとして述べています。 オリゲン の注解のように「(ファラオやヘロデのような)罪人たちのみが、彼らの誕生日を祝って」おり、これら2つのケースは殺人により特徴づけられています。65 これらの祝いに関連した多くの習慣は異教に起源を有しています。ギリシャ人は、ローマ人のようにすべての人に守護霊、つまりダオモーンがいて、その人の誕生の世話をし生涯その人を見守ってくれると信じていました。この霊は、その人と同じ誕生日を持つ神と神秘的な結びつきを持つとされていました。
 

ですから誕生日の祝いという概念は、1世紀のクリスチャンの観念からはかけ離れたものだったことが理解できます。

クラウディウス 

クラウディウス  Ma 1226     ドゥノンホール24; クラウディウス  OA70   リシェリュー1er ホール23 展示1
 

聖書の中で名指しで言及されている3人目のカエサルです。もともとはブロンズから派生している肖像彫刻は、恐らくクラウディウス皇帝の肖像に属しています。しかし西暦50年頃、この皇帝のみがメダイヨンの中央に王冠をつけて描かれました。クラウディウスはティベリウスの叔父で、西暦41年に大親衛隊によって皇帝として宣言されました。(フィリピ1:13)彼はその姪であるアグリピスと4度目の結婚をし、彼女は実の息子ネロを唯一の後継者として指名しました。

預言者アガボは「大飢きんが人の住む全地に臨もうとしている」と予告しました。それは「クラウディウスの時に実際に起こり」ました。(使徒11:27-30)ヨセフスはクラウディウス統治下のパレスチナで起きた飢きんを「大飢きん」と呼んでおり、その年代は西暦前46年ごろとされています。聖書は同じく「クラウディウスがユダヤ人すべてにローマ退去を命じた」と伝えており、2世紀のローマの歴史家スエトニウスは、その追放について言及しています。この退去命令により、クリスチャンである二人のユダヤ人、アクラとプリスキラはローマを去ってコリントへ行き、恐らく西暦50年に彼らはそこで使徒パウロに会いました。-使徒18:1-3

                           
       
  クラウディウス  Ма 1226     ネロ     MND 2050  
                           

ネロ   MND2050   ドゥノンホール 24
 

ローマの5番目の皇帝で、元老院に国家の敵と宣言されました。ネロは西暦68年6月、31歳で自害しました。大理石のこの肖像の造形処置は、劇的な統治の強調とあいまって、自然表現主義のユリウスクラウディウス風の最後の最後の言葉を告げています。使徒パウロがフェストの前で「わたしはカエサルの裁きの座の前に立っており、そこで裁かれるべきです。わたしはカエサルに上訴します!」と述べたときのカエサルはネロでした。(使徒25:10,21、脚注)使徒パウロのローマにおける二度目の投獄の際、使徒は彼の死が差し迫っていることを知らせます。(テモテ第二4:6-8)パウロは恐らく西暦64年の少し後、皇帝ネロの命令で殉教の死を遂げました。
 

西暦64年にローマは大火に襲われます。ネロは自分自身に向けられた疑いを晴らすために、この災害の源がクリスチャンであると非難しました。タキツスによれば70「うわさを一掃するために一般民衆からクリスチャンと呼ばれる人々にその罪を負わせた。死なせるだけでは満足しなかった。彼らは十字架にかけられ、昼間の光が消えると火あぶりにされて夜間のともし火にされた」。スエトニウスによると「新しい有害な迷信にふける部類の人々であるクリスチャンは処刑された」。教会の神父たちは、ネロをクリスチャンの最初の迫害者にしました。-マタイ24:9
 

ネロ  OA 71     リシェリューホール23 展示1
ネロ  Th 111   リシェリュー1er ホール92 展示1
 

以下もご覧ください。
 

皇后ポツペアの髪型の女性の頭  CA 844   シュリー1er ホール 37 展示1
 

フラビウス・ヨセフスはローマに滞在中、その友人たちが釈放されるよう仲介の労をとったネロの妻、皇后ポツペアと親しい友情を結びました。ユダヤ人の新党員のクリスチャンへ反感はよく知られていました。
 

ドミティアヌス帝  INV 279   ドゥノン1er ホール13

ドミティアヌス  OA 77  リシェリュー1er ホール 23 展示1
 

クリスチャンに対する迫害は、彼の治世中(西暦81-96)に頂点に達し、疑いなく使徒ヨハネは彼によってパトモス島に流刑に処されました。

                           

  ►  エトルリアの方へ右に向かって

             
                           

ペンダント  Bj 2404   ドゥノン Rdc エトルリアホール 19 展示 3 
 

十字とそれらの変形は、多くの文化の中で非常に早くから出現しています。ここでスワスチカ、ひじ型に曲がった支線でなる鉤十字に注目してください。この象徴の意味は政治的というよりもむしろ宗教的です。考古学者のチャイルドによると「印章や飾り板によく見られる鉤十字や十字形は、最初期の先史時代のバビロニアやエラムの場合と同様、宗教的もしくは魔術的な象徴である。
 

スワスチカは、当初登る前の太陽の運行を表し、サンスクリットの意味によると「福利をもたらすもの」の象徴の一つでした。これはまた、ジャイナ教の信奉者にとっては9番目の聖人の象徴でもあります。ヒトラーは幼少時代、オーストリアのランバハにあるベネディクト会修道院で鉤十字を始めて見ました。
 

鉤十字は、ベツレヘムにあるナチビテのバジリカのモザイク模様の作品に見られます。十字 はバビロンにおいて太陽神の象徴でした。同じ象徴は、周りを囲む輪がなく、直角に交差した長さの等しい4本の支線だけの状態でも存在します。キリスト教以前の時代の宗教的シンボルとしての十字の使用は、恐らくほぼ普遍的と見なされました。ですから古代バビロンの宗教的影響は、政治的力よりもっと多くの力と持続性をもって、数多くの人々や国に広がりました。

                           
 
                           

石棺 通称「夫婦の石棺」  Cp 5194    デノン エトルリアホール 18   =>
 

この例外的なモニュメントは、最も注目すべき傑出したエトルリア石碑の創作の1つです。作品は幾つかの部分で成っています。耳と手は明らかに付け加えられています。褐色の肌の男性の傍に明るい色の肌の妻が表現されており、現実の印象を与えます。彼らの顔は虹彩が与えられ、木材の瞳は黒曜石もしくはフロスがはめ込まれて塗装されています。このすばらしい陶土は、調和のとれた作品の中で故人が会食者のように半分横たわって表現されています。(ぶどう酒を共有することと共に)エトルリアの儀式の不可欠な要素のひとつである、香の捧げ物の身ぶりをしています。葬儀の美術の中にまで生きることの喜びを反映するこの文明は、バビロンの宗教から受け継いだ概念、特にあの世と地下の世界の信条に重要な位置を占めています。

 ►   ドゥノンホール25

ティツス

ティツス  MND 2224    ドゥノンホール25
 

この肖像は、ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)の後、自然主義の作風であった皇帝ネロ(西暦54-63)の彫像を作り直したものです。それはフラビウスの彫刻に現われているヘレニズムの影響を反映しています。このローマ皇帝(79-81)ウエスパシアヌスの長男は、西暦70年のエルサレムの都市と二番めの神殿の滅びに密接に関係しています。この勝利を祝って、彼の弟ドミティアヌスはローマにティツスの凱旋門を建てました。40年も前に予告された、イエス・キリストの最も注目すべき傑出した預言の成就の無言の証人です。
 

「エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら、その時その荒廃が近づいたことを知りなさい。その時ユダヤにいる者は山に逃げなさい。....なぜならそれは処断の日であり....そして人々は剣の刃に倒れ、捕らわれとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう」。(ルカ21:20-24) 。ケスティウス・ガルスは西暦66年にエルサレムを包囲しましたが、都を取ることが差し迫っていたときに軍を撤退しました。

                           
       
  ティツス                

不思議な展開の出来事は、クリスチャンたちが包囲された都から逃れることを可能にしました。「エルサレムのキリスト教徒の全ての成員は、ヨルダンの向こう側に位置した都市、ペラに逃れ」ました。続く予言は、預言の正確さの例の1つです。「あなたの敵が先のとがった杭でまわりに城塞を築き、取り巻いて四方からあなたを攻めたてる」。(ルカ19:43)歴史家のヨセフスは「多くが兵器を使って都市を攻め取ることに絶望した」ことを述べています。若い将軍ティツスは「迅速さと安全をかね合わせたいなら、都市全体を城塞で囲む必要がある」と決めました。城塞は3日で完成し、何ヶ月も要したであろう仕事に対して信じられないほどの速さでした。
 

確かにイエスの予告された「先のとがった杭の城塞」でした。建築の傑作である二番めの神殿に関連した最も注目に値する宣言の1つは、ローマ帝国の誇りとなっています。「彼らはあなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう」。(ルカ19:44,21:6)ティツスの最初の意志に反して、都市全体とその神殿は三つの塔と西側の城壁の一部を除いて完全に破壊されました。

                           

Denon

Grande Galerie


 

ドゥノン 1er

大ギャラリー ホール

  ティツスとウェスパシア

ヌスの勝利



 
Inv 423
                           

真の歴史的な教訓は続きます!聖書の預言はある出来事に想を得た人間の解釈やそれが述べられたときに存在した分派に基づいたものではありません。「それに注意を払っているのは良いことです」。-ペテロ第二1:19-21
 

ウェスパシアヌス  OA 75    皇帝のブロンズの胸部

ティツス   OA 76  皇帝のブロンズの胸部  リシェリュー1er ホール25 展示2

皇帝ティツスの肖像  MR 358    ドゥノンホール A マネージュホール

この巨大なティツスの肖像は、1609年にヘンリー6世の統治下のルーヴルの古代美術品の置かれていた部屋で発見されました。王朝のコレクションの中で証明されている最初の部類のものの1つです。

ティツスとウェスパシアヌスの勝利 Inv 423 ドゥノン 1er 大ギャラリー ホール 5

ウェスパシアヌス  MRR 269       シュリー 1er モントルホール48 展示9

                           

 >   銅に上薬が施されているsalle 26の皇后たちジュリア・ドナ(MND)とファウスティヌ・ラ・ジュヌ(MND781)の巧みに整えられた髪型にも注目してください。  以下もご覧下さい。

                           
 

ヘロデの神殿のギリシャ語碑文  AO 5032 
 

鋳造がルーヴルに収められているこの碑文は、エルサレムのヘロデの神殿の壁に置かれていました。それは異邦人が中庭に入ることを閉ざし、聖化されたユダヤ人の崇拝者だけに開かれていました。(エフェソス2:14 脚注)ミシュナ(ミドットⅡ、3)によれば、1.3mのこの壁はソーレグという名前を持っていました。この壁の上には、ギリシャ語とラテン語で警告文が置かれていました。「異国の者は聖域の周囲の柵の内側に入ってはならない。だれであれそれを侵した者は責任を問われ、死をもって罰せられることになる」。
 

この文書は使徒たちの活動の書の一場面を説明しています。アジアのユダヤ人たちは使徒パウロが「ギリシャ人を神殿の中に入らせ、聖なる場所を汚した」と非難しました。それは特にエフェソス2:14の脚注でなされているほのめかしをよく把握する上で助けになります。文脈の中で使徒パウロは、「中庭の壁」はユダヤ人と異邦人の間の古い律法の境界、モーセと結ばれた律法契約の結果を表わしていると説明しています。キリストの死が廃止した律法(コロサイ2:13-15)は「2つの民が父のそばに自由に近づく」ことを可能にしました。
 

この碑文はイエスに関連した次のピラトの言葉をよく理解する上でも助けにまります。:「あなた方が自分たちで連れて行って杭につけるがよい」。(ヨハネ19:6)これはその前にユダヤ人たちが言った「わたしたちが人を殺すことは許されていません」(ヨハネ18:31)という言葉に反するように見えます。西暦70年のエルサレムに対するローマの襲撃の目撃者である、歴史家フラビウス・ヨセフスは、ティツス将軍の次の言葉を報告しています。
 

「ギリシャ語と我らの文字を刻んだ石板を名所に置き、その手すりを越えることを禁じたのではなかったか。しかも我々はそれを超える者を、たとえローマ人であっても処刑する許可をお前たちに与えたのではなかったか。それなのに罪科のある者たちはなぜ今その内側で死体を踏みつけているのか」。このように、たとえローマ人が民事犯に対する死刑の執行をユダヤ人に許さなかったとしても、ある種の宗教上の重大な違反を犯した者を処刑する権限は与えられていたようです。イエスの場合がそうでした。

 

 

                           
 

犠牲  G 112    シュリー 1er ホール39 展示8
 

このエピドロマスの絵のセラミックのこの皿は、西暦5世紀の初頭のもので、豚の犠牲を表わしています。西暦前167年にシリアの王アンティオコス6世エピファヌは、エルサレムの神殿の大きな祭壇の上に建設された異教の祭壇に、類似した犠牲を捧げました。この神殿をゼウスに捧げました。この冒涜はマカベアの指揮下のユダヤ人たちの大規模な反乱を引き起こしました。3年間の闘争の後、ユダ・マカベアは神殿をYHWHに再奉納し、開会もしくはハノウカの祭りを制定しました。この祝いは福音書の中に言及されており、恐らくイエスはそれに参加されたことに注目できます。「その時、献納の祭り(ヘブライ語 ハノウカ)がエルサレムで催された。それは冬期であり、イエスは神殿でソロモンの柱廊を歩いておられた」。-ヨハネ10:22,23
 

ユダヤ人の伝承は、「嫌悪すべき者、荒廃をもたらす者」に関連したダニエルの預言(9:27)をアンテオコス6世による神殿の冒とくに適用しています。同様の表現が、第一マカベアのアポカリプスの書(1:54  人々のための聖書)に見い出されると共に、この出来事に適用されています。イエスは次の警告を与えられた際、この説明が不正確であることを示されました。「それゆえ、荒廃をもたらす嫌悪すべきものが、預言者ダニエルを通して語られたとおり、聖なる所に立っているのを見かけるなら(読者は識別力を働かせなさい)そのときユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい」。(マタイ24:15、16)

「嫌悪すべき者」は、過去の領域のではなく、将来に関するものでした。完全な荒廃は、西暦70年、ローマ人がエルサレムの都市と神殿を破壊したときに起こりました。

 
                           
 

つの枝の燭台の浅浮き彫り  AO 5042   ドゥノン中二階ホール A
 

このレリーフは7つの支柱の燭台(メノーラー)で飾られており、典型的なユダヤ人のシンボルとなりました。ルーヴルの敷石の上の三脚台に据えられ、右はルーラブ(シュロ)に左はシュファー(トランペット)に取り囲まれ、葉の付いた小枝の花輪に囲まれています。聖書はとりわけともし火の崇拝での使用について述べています。金の塊のともしびは幕屋の前方の仕切り室「聖なる場所」。(ヘブライ9:2)のためのもので、中心の軸と6本の枝とから成っていました。-出エジプト記25:31-40
 

聖書はゼルバベルおよびヘロデが再建した神殿の中の燭台については何も情報を伝えていません。ヨセフスはアンティオコス(エピファネス)が神殿の金の燭台を運び去ったと伝えています。ユダヤ人の表現は、ローマのティツスの凱旋門に見られるそれとは、基本的に大きな相違があります。

 
                           

ミツラの両面浮き彫り   MND 1911    ドゥノンホール 25
 

ペルシャの神ミツラが、宇宙を肥沃にするため雄牛の神の喉を切って殺そうとしている様がレリーフの一面に描かれています。ミツラ神は バビロニアの概念の明確な影響を露呈しています。そしてもしこの崇拝がローマの神話に関連しているという重要性を強調するなら、さらに古代文明の枝分かれと、ユーフラテス川流域の文明のつながりを加えることができます。 この崇拝は、クリスマスの祝いの源と緊密に結び付けられています。

                           
                           

「今日、あなた方に救い主、主なるキリストが生まれたからです」。(ルカ2:11)すべての歴史家たちは、イエスの誕生の正確な日付が分からないという点で一致しています。クリスマスという語は聖書には出てきません。
 

この祭りは異教のサトゥルナリアの影響を受けており、冬至を祝って農耕の神サトゥルナリアをあがめました。この祝いは、名高いどんちゃん騒ぎと贈り物によって特徴づけられました。同じく西暦274年12月25日、ローマの皇帝アウレリアヌスは太陽神ミツラを皇帝の主要な守護神と宣言しました。政治的な圧力の中、12月25日がクリスチャンに用いられるようになりました。自然界で再び命を与える、救いの神の「誕生」の祝いとミツラ征服されることのない太陽の神の祭りは、徐々に老人シメオンが用いた表現によれば「諸国民の光」であるキリストの誕生日として置き換えられました。-ルカ2:32
 

それでクリスマスの祝いは、太陽崇拝がローマでとりわけ盛んだった時代に誕生しています。これら詳細は、この祭りの起源が聖書からでも初期クリスチャンの習慣からでもないことを確証しています。
 

楽園の4つの川で飲む雄鹿と雌鹿 MND 401  24ページをご覧ください。  ホール28

リヴィア・プリミティヴァの石棺の断片  Ma 2983   ホール28

羊に囲まれた祭司、同様に錨と魚の存在は、クリスチャンの共同体への故人の帰属を表わしています。

                           

皇帝コンスタンティヌス1世 ? Cp 6399   ゥノンホール29
 

キリストの名において統治した最初のローマ皇帝、コンスタンティヌス大帝(306-377)は、悪賢い政治家の権限をもって16世紀の終わりにキリスト教が決定的な勝利に至る道に導きました。彼は337年から350年まで統治しました。312年、イタリアの敵アクセンティウスとの闘いの前日、コンスタンティヌスはギリシャ語のキリストという名称の最初の二文字(XP)を部隊の盾に描くよう夢の中で告げられたといわれています。伝承によれば、「このしるしによって征服せよ」という意味の「イン ホック シグノ ウィンケス」というラテン語の付された燃える十字架が現われました。キリストのこのモノグラムは、自称クリスチャンに用いられた十字架の最も初期のものとして知られています。

         

皇帝コンスタンティヌス

 

         
                   
       
  皇帝コンスタンティヌス     カルタゴの葬儀のモザイク  MND 576  
           

321年、コンスタンティヌスは日曜日もしくはディエ・ソリを最初の法として定めました。彼はこの日を十字架がその象徴であり、法的な責務であったローマの太陽神ソルに捧げるよう定めました。しかし彼は太陽崇拝を決してやめたわけではなく、硬貨に太陽の刻印をとどめていました。彼はキリスト教をレリジオ リシア、権威ある宗教として認めるにとどまりました。

彼は、教会の教義上の分裂を帝国の一致の脅威と見なし気をもみました。彼はポンティフェクス・マクシムス、つまり異教の大祭司の資格で、西暦325年にニケアで第一回目に召集されたエキュメニズムの公会議において主帝を務めました。彼こそが同公会議の信条の中でキリストと神の関係を説明した『父と同一の実体に関する』決定的な定式を提唱した人物です。聖書の中でどこにもその表現がない三位一体の基礎はこのように定められました。
 

コンスタンティヌスは明らかに宗教的理由よりも政治的な意図でキリスト教に改宗しました。彼が犯した身内に対する犯罪は、彼がキリスト教の霊的な感化を少しも受けていなかったことを示しています。コンスタンティヌスは臨終の間際にバプテスマを受けました。エウセビオスは「これは理屈に合わない。その前日にコンスタンティヌスはゼウスに犠牲を捧げていたからである」と語っています。
 

コンスタンティヌスの後、キリスト教は腐敗する世の中で統合の力となりましたが、それは歪められた形ででした。イエスとその弟子たちは、このような背教の到来を予告していました。-マタイ13:36-43;テサロニケ第二2:3、脚注

以下もご覧下さい。

                           
   

テオドシウスの赦免  INV 8005   

  シュリー 2e ホール43

 

この絵は、テサロニケで反乱を起こした7000人の市民を虐殺し、悔い改めた皇帝テオドシウス(379-395)がミラノ アンブロワズの司教によって許しを与えられているところが描かれています。統一されたローマ帝国のこの最後の君主の死で、ローマとコンスタンティノープルの間の宗教的自由は東方教会の分離と共に増大しました。
 

コンスタンティヌスの下では、キリスト教とローマ帝国は同盟関係にありました。テオドシウスの下でそれらは1つになりました。カトリック信仰はローマで許された唯一の宗教となりました。

 この宗教はイエスが「あなた方は世のものではありません」と言われた、初期の追随者たちによって行なわれたものとはかけ離れていました。-ヨハネ15:19

                           

 >   ホール28に展示されている以下の作品もご覧ください。
 

カルタゴの葬儀のモザイク  MND 576 ;  典礼の鉢  MNE656  展示 1 ; 
殉教者のテーブル    MNC1287 ; 石棺    MR886
 

コンスタンティヌスが見、軍旗に用いた十字はラテン十字架ではなく、クヒ(X)とロ(P)を重ね合わせたものです。この象徴はこの太陽神の崇拝者によって鋳造された数多くのコインに見られます。それは太陽崇拝の象徴ですが、クリスム、キリストのモノグラムでもあります。十字架は、コンスタンティヌスの時代以降、キリスト教の主要な象徴になったことが認められています。
 

十字架をのせたつり香炉   MNC 1496       展示 1

つり香炉  E 11270,E 11655   ゥノンホールB, 展示C 5,M 16 
 

つり香炉は、最初の4世紀の間、宗教的道具としての言及はされていません。初期クリスチャンたちは皇帝に誉れを捧げるために香をたくことや、その商売に関係することさえ拒みました。

コーデックス帳

 

生徒の練習版とノート  MND 552     ドゥノン ホール 30 展示 2
 

生徒たちはロウを塗って尖筆で書かれた板の上で練習しました。生徒たちは文字の模範に従い、正確な写しを作るように努めなければなりませんでした。使徒パウロは、この例えをキリストの模範に注意深く従うように、クリスチャンたちを促すために用いました。「事実、あなた方はこうした道に召されたのです。
 

キリストでさえあなた方がその歩みにしっかりと付いて来るよう手本を残されたからです」。(ペテロ第一2:21)手本、もしくは模範(新共同訳、口語訳)と訳されているギリシャ語はヒュポグランモスです。この語は聖書中にただ1回出てきます。

                   

Codex  MNE  914

生徒の練習版とノート   MND  552                  


これは「下に書いたもの」もしくは「書き方を学習する際の助けとして初心者にあてがわれる、すべてのアルファベット文字を含む写すために書いたもの」を意味しています。使徒はこの例えによって、真のクリスチャンとは生徒のように、その教師イエス・キリストの完全な模範に従う人であることを示しました。イエスに関する記録は、理論上のみならず実際の行動にも働きかけ、こうしてキリスト教は意義を持つ、もしくはもたらすのです。
 

1つの条件があります。「わたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなたは本当に私の弟子であり、また真理を知り、真理はあなたを自由にするでしょう」。(ヨハネ8:31,32)時とともに、原始のクリスチャン会衆はイエスや聖パウロが驚くであろう宗教組織に変わってしまいました。キリストの教えは実際、数多くの祝祭と主として古代バビロンから借りた宗教的信条に置き換えられました。                                                                                                

 
           
                           
   

この支配的な特徴は「大いなるバビロン」のものです。

   
                           

聖書の巻末の書は、この名を「秘密」として述べています。(啓示17:5、脚注)この「宗教上の秘義」を解明することは非常に重要なことです。なぜなら、神の民は「彼女の罪にあずかることを望まないなら、彼女から出なさい。
 

あなたの心霊術的な行ないによってあらゆる国民が惑わされたのである」と警告されているからです。み使いは決定的な滅びのゆえに、この象徴的な「都市」から出ることの緊急性を大声で叫んでいます。(啓示18:4,21)「この女は地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市を表わしている」(17:18)と記されていることや、彼女が「旅商人たち」が富を蓄えるのを助けていることからして、政治体制や商業体制を表わしているのではないことが分かります。
 

このミステリアスな名は、世界的な宗教の実体、原始キリスト教によって残された模範に全く一致しない教えと行いのこれら全ての宗教に最も適しているのではないでしょうか。

「過去を学ぶとき、将来を注視することは避けられない」。
 

あるときイエスは「石が叫ぶだろう」と述べられました。確かに冷ややかな言葉も存在しますが、私たちが引用した数々の証拠に耳を傾けることも当を得たことではないでしょうか。それらはこれまでの「人間の歴史」に痕跡を残しているゆえに、信者や不可知論者が無視することのできない出来事です。

                           
   

 

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Carte 古代ギリシャ - ホール17Fin du département