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古代ギリシャ
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マルシュアスの死刑
   過ぎ越し
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コンスタンティヌス大帝
最初の本
テーブルとヘビ
礼拝の高い場所
金でできた崇拝者
エレクトラム
ダリウス1
射手の帯状装飾
スフィンクス
女神セレネ
裸の女神
マラソン
バビロニア契約
アハシュエロス王
モザイク
装飾された壺
石棺
船の模型
骨つぼ
奉納の石碑
巫女
標柱
テマの石碑
埋葬の浮き彫り
結婚した石棺
巨大なかめ

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蛇と噴出する水の神々で装飾されたテーブル  Sb 185    シュリーホール 10
 

犠牲者の血が流れ出ているくぼみに注目してください。蛇はたびたび崇拝の対象として用いられました。これは性の女神に関連した生殖能力のシンボルです。絡み合った二匹の蛇は、性的な結びつきを連想させます。

 

 

繰り返される脱皮もまた、命の連続性の比喩的表現です。

興味深いことに、聖書ははっきりと悪魔またサタンを初めからの蛇と述べています。-創世記3:1-15、啓示12:9

臣民たちによって行なわれた蛇崇拝を終わらせるため、ヒゼキヤ王はモーセの時代に荒野で用いられた「銅の蛇の偶像」を粉々にしました。(列王第二18:4)。

                           

イエス・キリストはニコデモに、永遠の命を得るためには彼に信仰を働かせることが必要であることを示しながら、このエピソードの預言的な意味を明らかにしました。-ヨハネ3:13-15

          シュリーホール 10          
                           

セレモニー 通称「座るシャマシュ」Sb 2743     シュリーホール10展示   13
 

このブロンズの高原は、カナン人が用いた場所に匹敵する高き所を表しています。シ・シャマシュ、「日の出」という語は、太陽神シャマシュに捧げられた崇拝を思い起こさせます。しゃがんだ祭司たちの横は、石碑、鉢、神聖な植え込みが整えられています。裁き人たちの時代中、背教したイスラエル人たちは「もろもろのバアルや聖木(アシェリム)に仕えるようになり」ました。(裁き人3:7、脚注)

                           
                           

アシェラはカナン人の豊穣の女神でした。(列王第二13:6、脚注)。イスラエルとユダは、神聖な書き板に作られた明確な神の禁止令を考慮に入れませんでした。(申命記16:21)。それらは「すべての高い丘の上やすべての生い茂った木の下に」据えられました。これらの崇拝の対象は、ひどく不道徳で性的な乱痴気騒ぎに関連しており、このことは「神殿男娼」の言及に示されています。-列王第一14:23,24

                           

金でできた崇拝者   Sb 2758

リシュリューホール 10 展示8

 

スースのこの小立像は、右手を上げ左の腕にヤギを抱え、祈りの状態にある人物を表しています。

土台の柄(ほぞ)は、小立像が台にはまり込んで立った状態を保てるようにしています。メソポタミヤにあるスースのような所では、典型的な敬虔な行為は神々に奉納物を携えてくることにあり、次いで信者自身を表した小像をあずけることによってこの行為を記念として永遠に保つことでした。
 

逆に聖書は、例えば手を動物の頭の上に置くといった(レビ3:12)、犠牲を捧げる個人的な契約を強調しています。

ホセア14:2は「自分の唇の若い雄牛」を神に捧げるように招いています。活発で継続的な歩みもクリスチャンに求められています。「この方(イエス・キリスト)を通して常に賛美の犠牲を神に捧げましょう。すなわち、そのみ名を公に宣明する唇の実です」-ヘブライ13:15

 
                           

琥珀金のカップ  AO 21814       シュリーホール 11展示   3(2)
 

水牛を操っている半人半雄牛の装飾されたこのカップは琥珀金で、金と銀の合金です。熱するととても美しいきらめきを放ちます。-エゼキエル1:4 脚注;8:2

                           
                           

円筒印章とスースの印  AO 29433   シュリーホール  12a 展示   1
 

これら小さな円筒とアシュメニドの時代の指輪は、エステル記の記述(エステル1:19;8:8)とメディア・ペルシャの王の不可侵の特徴を例証しています。「王の名で書かれ、王の認印つきの指輪で印を押された書き物、それは取り消すことができないからだ。」公布から18年後、キュロスの記録が発見されたとき、ダリウス王は神殿の建設に関するユダヤ人の合法的な立場を認めました。-エズラ6:1-12

円柱の柱頭  AO D1  シュリーホール12a

この柱頭は、ダリウス1世の宮殿の会見の間(アパダナ)の円柱の一つです。すじの入った柱身、花飾り、最上端「供基石のブロック」、そして杉の柄の天井に置かれた雄牛の上半身に注目してください。古代エラムの首都であり、ペルシャの皇帝の行政の中心地スサ(シュシャン)は、バビロンとペルセポリスの間に位置していました。そこは預言者ダニエルの幻のひとつ、「メディアとペルシャの王を表している」二本の角のある雄牛の舞台です。ーダニエル8:2-3,20

                           
   

そこはまた、エステル書の中で伝えられた出来事があった場所です。ある人々は「絵画の装飾は厳密で、優れた地域的な色調」であることを指摘しながらも、記述の信ぴょう性を疑っていました。しかし「旧約聖書中に描写されている出来事で、シュシャン宮殿の場合ほど、実際に発掘された遺物によって、その出来事が起きた状況を極めて正確に復元できる例はない」と言えます。フランス人考古学者達が行なった発掘によって、ペルシャの王国の行政とダリウスの後継者に関して筆者が述べている詳細な事柄の正確さが確証されました。

                           
                           

聖書は、ダリウスの後継者、クセルクセス1世と呼ばれる皇帝の偉大さに関してこう述べています。:「アハシュロス、すなわちインドからエチオピアまで、百二十七管轄地域を王として支配していた。」-エステル記1:1
 

「スサ城」は同じく、アルタクセルクセス・ロンギマヌスの治世中、ネヘミヤが王の献酒官として仕えていた所です。西暦前455年にこの王は、メシアの到来に至る70週の預言の秒読みを開始することになる、エルサレムの城壁を再建する許可を与えました。ーネヘミヤ2:3-8、ダニエル9:25

射手の帯状装飾

射手の帯状装飾   AOD 487-8 , Sb3321      シュリーホール12b
 

レンガに極彩色の釉薬がほどこされたこの射手の帯状装飾は、スサでダリウス1世の王国の宮殿を飾っていたに違いありません。ここに展示されている大壁画をネヘミヤが恐らく見たであろうと思うと不思議な気持ちがします。装飾は確実にバビロンの行列の道から着想を得ています。技法は異なっていますが、バビロンの職人たちはこの場合のようにケイ酸質ではなく、粘土質の練り物のレンガを使っています。

                           
                           
Louvre salle des archers
                           

ダリウス1世の宮殿の建設の古文書に「レンガを製造していたのはバビロニア人であった。スサでは数多くの美しい物が命じられ、数多くの美しい物が作られた。」と述べられています。頬の高さで弓を持ち、矢を放っているペルシャの射手たちは、世界で最も熟練していました。ヘロドトスによると40、ペルシャ人は「子供たちが5歳になると、20歳までに3つの事柄のみ教える。乗馬と弓術と真実を語ることである。」騎手たちは後ろ向きに矢を射ることができました。ペルシャの戦略は、矢を雨あられと放って敵を襲撃するとき、射手たちが機動力を持ち、自由自在に動けることでした。
 

翼のある球体を持った突き合せられたスフィンクス  Sb3324-25   ホール 12
 

このパネルは、翼のある雄牛、グリップス、時にはダリウス1世の時代以降、ペルシャの歴代の君主の碑文の中で言及されているゾロアスター教の主神、アフラ・マズダ(翼のある円盤状の図柄で表される)の象徴であるライオンといった動物たちが表されています。
 

レンガ(4)  Sb 14084,Sb 15567   シュリーホール  14展示 4

古代ペルシャのダリウス1世の宮殿建設の古文書(1)
 

ダリウス・ヒュスタスピスは、ペルシャ帝国の傑出した支配者の一人とされています。彼が西暦前515年に、預言者ハガイとゼカリヤの推進力のもと神殿の再建を完成させるよう、ユダヤ人に許可する政令を公布しました。(エズラ6:1-4)。

彼はゾロアスター教の主神アフラ・マズダの熱心な崇拝者でした。この三つ組の神の象徴は、アッシリアの神アシュラにとてもよく似ていました。
 

分銅の形をしたネックレスのお守りダリウス1世の名において  AF2913 シュリー 1er  ホール 29展示 13

勝利を告げるマラトンの兵士   L.P.243      リシュリューCour Puget
 

西暦前490年のマラトンの戦いは、歴史の最も驚くべき勝利の一つです。伝承は、ダリウス1世が指揮するペルシャの侵略軍に対し、ギリシャが勝利を収めたことをアテネの人々の伝えるため、使者が走ったことを伝えています。このライバルの支配権における上昇の始まりでした。聖書的な面から述べると、「二本の角を持つ雄羊」であるメディア・ペルシャ帝国が「雄ヤギ」であるギリシャ強国によって恥辱をもたらされることは、既にずっと以前に予告されていました。42 -ダニエル8:5-8

                           
バビロニア語の契約書字板 クセルクセス1世の食器の断片

以下もご覧下さい。
 

クセルクセス世の名の記された装飾器  AO 2634  展示4(10)

器と断片  Sb 561,  Sb564      展示4(11,12)

器の断片  Sb 4110   シュリー 1er  ホール29展示 13

エジプトを支配したペルシャのこの王の名前は、ヒエログリフと古代ペルシャ語でここに記されています。
 

テルモピレーでのレオニダス  INV 3690    ドゥノン 1er  ホール 75

このとても狭く細長い土地は、ギリシャ中心部へのアクセスを阻みました。そこは、クセルクセス1世の指揮するペルシャ軍を撃退する企ての中での、スパルタの王レオニダスと1400人の部下の英雄的な死の舞台です。
 

バビロニア語の契約書字板  AO 7672  シュリーホール 14展示 4(16)

キュロスは西暦前539年にバビロンを征服しました。この年はバビロンの暦でキュロスの統治の第一年目とされています。それは世俗の年譜と聖書の年譜共に一致しているので、要となる年です。

                           

ハープ奏者のモザイク  AO 26169     シュリー ルヴァン ホール16
 

音楽に係わる聖書中の最初の言及はユバルに関するもので、「すべてたて琴を扱う者の始祖となった」(創世記4:2)とあります。歴代第一15:20,21は「弦楽器(ネヴァーリーム、複数形)を用いてアラモトに合わせ、たて琴(キンノーロート、複数形)を用いてシュミントに合わせた」と述べています。聖書は12種類あまりの楽器について言及していますが、それらに関してわずかな情報しか与えていません。ネヴェールは木材の楽器の一つで、神聖な音楽と世俗の音楽の両方を演奏するのに使われ(サムエル第二6:5;アモス6:5)、キンノールも比較的に軽く持ち運びができ、何よりも「快い」歓喜の楽器でした。-詩編81:2;イザヤ24:9
 

聖書や世俗の文献は、イスラエルの音楽家たちの力量と、ヘブライ語詩の質の高さを証明しています。エルサレムの神殿に関連した合唱団(男性)と楽団は、音楽教育と技能の水準が高かったことを証明しています。ソロモンの神殿の奉献式の記録は、音楽の中に不調和がなかったことを示して「ラッパを吹く者と歌うたいたちが一人のようになって一つの声を聞かせた。」(歴代第二5:13)と述べています。興味深いことに、アッシリアの浅浮き彫りは、セナケリブ王が貢ぎ物としてヒゼキヤ王に男女の楽士たちを支払うように要求している様子を描いています。真の崇拝に関連した器楽のことは、ギリシャ語聖書の中では比喩的な意味で述べられているだけです。(啓示14:2)コリント第一14:15で使徒パウロが述べた事柄は、歌がクリスチャンの崇拝の定常的な特色であったことを示唆しているようです。もっとも彼は仲間の崇拝者たちに「霊の歌、心の調べに合わせて歌い」神を賛美するように励ましています。-エフェソス5:19

                           
                           

装飾された壺  MAO 426   シュリーホール 16展示 5
 

4人の踊り子たちと壺の上部の周囲が真珠状の玉の列で飾られた、卵形に膨らんだこの壺は、ササン朝ペルシャの金銀細工製品の特徴です。舞踏芸術は非常に古い起源を持ちます。紅海でのイスラエル人の救出やエフタの勝利の帰還の際に踊りを踊りました。またダビデとサウルは歌や踊りで歓び迎えられました。多くの場合女性たちも踊りました。契約の箱がエルサレムに到着したとき、ダビデは感情を表現し、「ヤハウェの前に力の限り踊り回って」いました。-サムエル第二6:14
 

異教諸国の民の間でも、踊りには宗教的な意義がありました。カナン人は、豊饒をもたらす自然の力に誉れを帰すために偶像や聖木の周りで輪舞を踊りました。エリアの時代には、バアルの祭司たちは祭壇の周りを「よたよたと回り続け」、度を越えた常識はずれの悪霊的な踊りに身をゆだねました。(列王第一18:26)他の翻訳は「彼らは足を引きずるような踊りを行なった」(聖ア)または「びっこを引くようにして踊った」(ユダ)と述べています。イスラエル人も同じく、金の子牛の前で一種の異教の踊りにふけりました。-出エジプト記32:19
 

下記の作品もご覧ください。

エフタの娘  BAZZANI  RF 1991-3  ドゥノン 1er  ホール22

ダビデの大勝利  MANFREDI RE 1990-29   ドゥノン大ギャラリーホール 8

ダビデの大勝利  ROSSELLI inv 592   ドゥノン 1er ホール13

                           
 

装飾された壺  AO4806    シュリーホール17a
 

エジプト技法のこの石棺の上のフェニキアの碑文は、ペルシャ帝国の歴史に関する非常に貴重な情報の宝庫です。本文は疑いなく「王たちの王」、クセルクセス1世に関してほのめかしています。王はここで彼の母は「聖母、アシュタルテの女祭司」であったこと、彼の王朝が「アシュタルテ神とシドンのバアル神」に奉献した数々の神殿を建設したと強調しています。ソロモンがめとった異国の女性のいくらかはシドン人で、彼女たちがこの王を胸の悪くなるような豊饒の女神、アシュトレテに従うように仕向けました。(列王第一11:1-6)。シドン人は崇拝の仕方こそ堕落していたとはいえ、正道からそれたイスラエル人ほどの非難には値しませんでした。イエスは、メシアとしてのイエスを退けたユダヤ人よりもシドン人のほうが裁きの日には耐えやすいと言われました。-マタイ11:20
 

ロトの脱出  Rubens inv 1760

ロトと娘たち  Le Guerchin inv 75 ドゥノン1er ホール12
 

題材は創世記(19:30-38)からとられています。ソドムとゴモラの滅びの後、地から彼らの家系が断絶することを恐れて、ロトの娘たちは、二度近親相姦を犯させるため父を酔わせました。

イシュタル

通称「アシュトレテの王座」の奉献の座  AO4565 シュリーホール17 b
 

カナンの女神でバアルの妻と見なされたアシュトレテは、ギリシャ語名をアスタルテといいます。この女神はシュメール人の豊饒の女神イナンナ、すなわちバビロンのイシュタルのことではないかと言われています。彼女はしばしば性器を過度に誇張した裸体の女性として表現されます。神殿娼婦は、その崇拝の特徴のひとつです。
 

アニコニック(聖柱、聖木、アシェラ、列王第一16:33脚注)の他に「彫刻像」(列王第二21:7)のようなこれらの神々の擬人具象化は、イスラエル人にとって全くの「罠」でした。(裁き人2:3)。このように一般的に位置づけられ、彼らの前で見られる神々のこの光景のため、十戒の禁止事項は十分に理解できます。「あなたは彫刻像を作ってはならない(...)それに身をかがめてはならず、さそわれてそれに仕えてもならない。」(出エジプト記20:4,5)

                           
AO4565 AO 20127 AO11503
                           

単数形のアシュトーレトという語は、聖書の中でソロモン王がこの「シドン人の女神」を崇拝したことに関連して始めて出てきます。(列王第一11:5,33)。この単数形は他にももう一度、ソロモンがシドン人の嫌悪すべきもののために築いた高き所を、ヨシヤ王が取り壊したことに関連して出てきます。(列王第二23:13)。複数形のアシュターロートはこの異教の女神の像やその表示物を指しているようです。(裁き人2:13)。この崇拝は恐らくアブラハムの時代のカナンで行なわれていたと思われます。というのは、その地の都市の名の1つがアシュテロト・カルナイムと呼ばれていたからです。-創世記14:5
 

1929年にラス・シャムラ(古代ウガリット)で発見された文書は、カナン人の並外れた下劣な性質とその宗教の性倒錯を確証しています。アシュトレテ、アナス、アシュラ女神は淫乱と暴力的サディズム、また戦いを象徴しました。豊饒の女神の祝いや儀式は明らかな官能性を解放しました。カナン人は彼らの神を宗教的儀式の意義のある不道徳な行為をし、また彼らの長子を殺害して崇拝しました。つまり国家的な規模で一種のソドムとゴモラになったようです。これほどおぞましい、腐敗と暴力の文明が長く続く権利があったのでしょうか。神が彼らを皆殺しにすることを命令されたことをまだ驚くでしょうか。(申命記7:1-2)。カナン人の都市の廃墟を発掘した考古学者たちは、神が彼らをすぐには滅ぼさなかったことに驚いています。
 

プロトタイプのシュメロ・バビロニアンのように、アスタルテは二つの顔があります。あるときは戦の女神、またあるときは愛の女神です。この裸体の女性、生命の創造者は、彼女を崇拝し、戦いを指揮する武装した被造物を抱擁しようとしています。

                 
                           

以下もご覧ください。
 

アフマルのようなイシュタル  AO 11503    リシュリューRdc ホール6
 

この浮き彫りには、戦争の女神が彼女の動物象徴であるライオンの上に立ち、引き綱を持っています。彼女は円筒形の冠をかぶっており、その上に円盤があります。1つの碑文はそれが誰かを明らかにしており、特にアッシリア人に崇拝された「アラベルの都市のイシュタル」であると述べています。サウル王の敗北後、その武具がアシュトレテの像の家に置かれたことから、アスタルテはカナンに住むフィリステア人の戦いの女神でもあったことが分かります。-サムエル第一31:10
 

エジプトと異国人の神々  C 86  シュリー 1er  階ホール 28展示 1
 

この石碑には、エジプトのミン、カナンのレフェシュ、シリアのカデシュ、大胆な合成でありながら厳密なメソポタミアの女神イナンナ/イシュタルが、戦い(ライオン)と愛(裸体の女性)のこの二重の面と共に表現されています
 

立った状態の裸体の女神の小像  AO 20127
 

腕を組み、装飾品で飾られた「偉大な女神」のこの繊細な小像は、女性らしい丸みが出ています。官能的なヴィーナスの体と貞潔なディアナの三日月形がうまく組み合わさっています。これはシリア産のレンガの板の鋳造を介しており、裸体の女神の像として広がり次いで衣を着けるようになったアスタルテ女神を表現しています。
 

ペンダント  AO 14714  シュリールヴァンホール B 展示 8
 

ラス・シャムラでの発掘により、土また金製の裸体の女神の小像が発見されました。蛇に取り囲まれたこの裸体の女神は、ライオンの上に乗り二匹のヤギを操っています。多くの場合このように性器が露骨に誇張された女性の裸像です。カナン人の男根崇拝に関して、W.オールブライトはこう述べています。「彼らの祭儀のエロティックな面は、社会的退廃の極めて不潔で低劣な状態にまで堕落していたに違いない。」
 

 ►    ホール17 b の展示品、異なるおもりとタニスの印(34,36など)に注目してください

                           

船の模型   AO29583   ホール 17 b
 

これらの船はティルスが古代世界の大海運国のひとつであったことをうかがわせます。その船員たちや「タルシシュの船」から成るその商船団は、遠隔地に船旅をすることで有名でした。(列王第一10:22)。

ティルスの歴史もまた、聖書預言の成就の印象的な例の1つです。これらフェニキアの船員たちは、聖書という名の由来である「ビュブロス」という都市も拠点としていました。

 階段を再び登ってください。

 

子供の犠牲はフェニキア人の崇拝において不可欠なものの1つでした

子供の犠牲はフェニキア人の崇拝において不可欠なものの1つでした。サランボ によって広められたこのおぞましい行為の痕跡は、北アフリカに築かれたコロニーに見られます。家族が血と肉において神々に服従する、この火による供犠のしきたりは、6世紀の間にカルタゴでは消失しました。富と権力を得、それを保つために上流社会の中で大変広がりました。
 

ユダの王アハズやマナセを含む、背教したイスラエル人が子供の犠牲を捧げたことが聖書中に見られます。(列王第二16:3、歴代第二33:6)。ヨシヤ王がトフェトを「ヒンノムの子らの谷にあり、だれも自分の息子や娘を火の中を通らせてモレクに捧げることがないように」用いられないようにしたにもかかわらず、この行為は完全にはなくなりませんでした。-列王第二23:10-13;エゼキエル20:31

 
 


骨つぼ   AO 5991


  シュリーホール 18 a


展示  1(72)


< =

                     


<  奉納の石碑  


AO 5244, AO 1014  

シュリーホール 18 a
 



石柱  =>
 

シュリー ホール18b

                           

数多くの石碑が、カルタゴに近いトフェトの巨大な納骨堂で発見されました。これらの奉献物は厳密な意味で保管所の上に立てられました。石碑の下からは、土でできた骨壷が見つかりました。明るい装飾を施したものもあり、中にはいけにえになった犠牲者の骨灰が入っていました。タニトの刻まれた石碑は、一般的に三角形の上に一本の平行な棒線に1つの円もしくは円盤をのせた形で構成されています。奉納者は誓願を都市の一組の守護者に捧げました。 : それはバアル神ハモンとタニト女神です。タニトはフェニキアの神アスタルテに相当します。
 

石柱  AO 4818   シュリー ホール18b
 

この小さな大理石の碑、ギリシャ語とフェニキア語の献辞「ティルスのバアル、メルカルトヘ」は、1758年のフェニキア殖民都市の解読が元になっています。異教徒の妻イゼベルの影響によって、アハブ王は別の形式のバアル崇拝をイスラエルに取り入れました。それがティルスのバアル、メルカルトの崇拝です。(列王第一16:30-33)。ヨセフスはイゼベルの父、エトバアル、またの名をイトバルについて述べ、この人物が王を殺害して自ら王位に就く前は、アスタルテの祭司だったと明確にしています。

                           

テイマの石碑  AO 1505  シュリーホール 19展示 7
 

アラム語の文書の書かれたこの石碑は、アラビア人におけるバビロンの神の崇拝の紹介と関連しています。石碑の下の記録には、祭司が祈りの姿勢で腕を上げている様子が描かれています。神の上方には翼のある円盤が見られます。聖書にはこのタイプの崇拝の場面は全く出てきません。犠牲を捧げることができたのは神殿にある祭壇のみでした。アロンの子孫の具現化もありませんでした。西暦70年のエルサレムの神殿の滅び以降、フレスコ画やモザイク上で大祭司の表現が見られます。この重要な文書はたびたびテイマでのナボニドスの滞在と結び付けられています。カルデア王朝の最後の王は、このオアシスの都市に王宮を据えたようです。そこはアラビア経由で金や香辛料が運ばれた、隊商路の交差する都市でした。

「彼は都市を開発し、そこに宮殿を建てた。彼がバビロンの宮殿のように建てた。」聖書のダニエル5章の記述は、ナボニドスが支配権を持っていたことを示唆しています。その箇所で彼の息子ベルシャザルがダニエルに王国の第三の支配者になることを提案しているからです。

                           
       
  テイマの石碑  AO 1505     巫女  RF 4718    

神官と俗人を区別することは、バビロニアの宗教の特徴でした。高位の祭司たちは独身を誓いました。イエスは独身制を祭司職の前提条件とはしませんでした。もっとも「霊感のことばは、後の時代にある人たちが結婚することを禁じるようになると明確に述べています。」-テモテ第一4:1-3


>  以下もご覧下さい。
 

王座に座しているシベル  CA 1797   シュリー1er  ホール36展示  18(5)

座っているシベルの像  MNC 1396
 

ギリシャ人にレアの名で知られる、フリギアの偉大な女神キュレベは偉大な母、もしくは神々の母と呼ばれます。その崇拝はローマに原始的な形態で、またその独身の聖職者たちと共に導入されました。
 

巫女  RF 4718    リシェリュ RdC  ホール 29
 

この18世紀のフランスの傑作は国宝と見なされています。巫女は、聖なる灯火が決して消えることのないよう見守ってベスタの崇拝に身を捧げました。彼女たちはローマ崇拝の大祭司、ポンティフェクス・マキシムスによって選ばれました。純潔の誓いを解消した一人の巫女は生きたまま燃やされました。クリスチャンの伝統は、巫女の1人であるクラウディア キンタを、崇拝されてきた聖母の一群と同一視しています。このような類似は、インドの慣習(キリスト教年以前、仏教が僧侶に独身を要求した)、アメリカの慣習(特にペルーの修道女)古代ローマの慣習との間で存在しており、キリスト教のそれと共通した起源であることは大変もっともらしいと言えます。

                           

ベルシャマンの三つ組  AO 19801  シュリーホール20展示  3(2)
 

この宗教レリーフは、一般的にタドモルと同一視されているパルミラで発見されました。(歴代第二8:4)。都市の三つの主神がローマの兵士の姿で表されています。「天の君」または「雲に乗る者」と呼ばれるバアルを中央に、月神アグリボルが右、太陽神マルクベルが左に表現されています。
 

バアルや他のカナンの神々は、崇拝者たちの思いの中で特定の天体と結び付けられていました。ラス・シャムラ文書は「女王シャパシュ(太陽)と星々」への捧げ物について言及しています。他の文書も「太陽の軍隊と昼間の軍勢」について言及しています。聖書は天体とバアル崇拝の関係を明らかにしています。「彼らは天の全軍に身をかがめ、バアルに仕えはじめた。」と述べています。-列王第二17:16

< ベルシャマンの三つ組

埋葬の浮き彫り  >

埋葬の浮き彫り  AO 2000  シュリーホール20 展示 
 

この埋葬の浮き彫りは、ロクルスというパルミラの家族の埋葬地の中でそれぞれの遺体を収容する場所の扉の役割を果たしていました。半分横たわった有力者は、ペルシャの衣を身に付けています。彼の妻はひとまわり小さく表現されています。食事の際に横たわる習慣は、ギリシャ・ローマ世界から来ています。パルミラではもっぱら葬儀の意味合いがあります。聖書中にはそのことは言及されていません。
 

浮き彫りの墓碑からはこのように読み取れます。「マリクの像...ああなんということだ!そしてその妻アディア」。聖書の中にもこのような喪の悲しみの表現が見い出されます。「泣き叫びが生じ、すべての街路で民は『ああ!ああ!』と言うであろう。」(アモス5:16)。嘆き悲しむことはたびたび親子の関係に結びついており、例えば列王第一13:30では「人々はその人のために悼み悲しんで『気の毒なことだ。わたしの兄弟よ!』と言った。」と述べています。預言者エレミヤはエホヤキムの死に際して人々が、「『ああ、わたしの兄弟よ!ああ、わたしの姉妹よ!』と泣き叫びはしない。」と書きました。-エレミヤ22:18

                           
                           

イスラエルの隣国の異教の民がぜい沢な記念碑を作る風習があったのにもかかわらず、最も古いユダヤ人の墓は注目に値するほど簡素です。あるものはしばしばはっきり見えないので、人がその上を歩いても気づかないほどでした。(ルカ11:44)。ユダヤ人は死者を崇拝しませんでしたし、その崇拝方式はエジプトやバビロンのように、霊の世界で死後に意識が存在するという信条を助長しませんでした。
 

> 以下もご覧下さい。

 

ヨサファトの墓  AO 5064  聖ヤコブの墓   AO5033

 

ルーブルに保管されているこれら二つの鋳造物は、独創的な価値があります。最初のものは、装飾法の中で、ユダヤ教のパリサイ派の厳格な教理に厳密に一致しています。二つ目のものは、実際に岩石に刻まれた碑文によればベネ・エジラの家族の祭司たちのネフェシュです。これらの記念碑はイエスの時代に存在しており、次の聖書の言葉との比較を可能にしています。「偽善者なる書士とパリサイ人たち、あなた方は災いです!あなた方は…義人たちの記念の墓を飾りつけて」(マタイ23:29)。この言葉はルーブルが所有する鋳造(AO 5017,5034)がある、別の墓石にも適用できました。

 

その墓石は「王たちの墓」と呼ばれ、複数の石棺が取り出されました。最初のものはサダン女王(AO5029)の石棺です。他には植物をかたどった模様(AO5057)もしくは開いた花の並列(AO5036)で装飾されています。イエスが埋葬された墓は大きな円形の石で閉じられました。入り口をふさいだこれら複数の石がルーブルにあります。1つ目は開き戸を再現しており(AO5036)二番目は錠前がかかる仕組みで操作されたものです。(AO 5057,AO 5349)。三番目のものには様々な装飾が見られます。(AO 3989)

 

聖書時代に、イスラエル人は死者を洞くつもしくは墓穴に埋葬する習慣がありました。(創世記23:2-20)。墓がないことは大きな災いでした。エホヤキム王は「雄のろばが埋められるように埋められる」と予告されました。(エレミヤ22:18)。またイエスは完全な滅びの象徴として、墓を得る資格のない重罪人の死体が投げ込まれたヒンノムの谷を用いられました。-マタイ5:22。 今日行なわれているような火葬は恐らく、ヤベシュ・ギレアテの人々がサウル王と彼の息子たちの遺体をフィリステア人から取り戻した後に取った行動に幾分匹敵します。聖書は彼らが遺体を持ち帰り、ダビデ王が同意した敬意に満ちた仕方で「これらを焼いた」(サムエル第一31:12)と述べています。 -サムエル第二2:4-7


墓と訳されるギリシャ語のタフォスは、埋葬を強調しており(マタイ23:27にあるように)ムネーメイオン(記念、記念の墓、ヨハネ5:28にあるように)は故人に関する記憶の永続性を強調しています。これらの原語のギリシャ語に記憶にとどめられるという基本的な概念が含まれていることは、ある盗人がした「あなたがご自分の王国に入られる時には、わたしのことを思い出してください」というイエスへの嘆願の言葉を一層意味深いものにしています。-ルカ23:42

 

石棺 通称「夫婦の石棺」  Cp5194 ドゥノン エトルリアホール 18
 

この例外的なモニュメントは、最も注目すべき傑出したエトルリア石碑の創作の1つです。作品は幾つかの部分で成っています。耳と手は明らかに付け加えられています。褐色の肌の男性の傍に明るい色の肌の妻が表現されており、現実の印象を与えます。彼らの顔は虹彩が与えられ、木材の瞳は黒曜石がはめ込まれて色づけされています。
 

このすばらしい陶土は、調和のとれた作品の中で故人が会食者のように半分横たわって表現されています。(ぶどう酒を共有することと共に)エトルリアの儀式の不可欠な要素のひとつである、香の捧げ物の身ぶりをしています。葬儀の美術の中にまで生きることの喜びを表現するこの文明において、バビロンの宗教から受け継いだ概念、特にあの世と地下の世界の信条が重要な位置を占めます。

石棺 通称「夫婦の石棺」  >

 < 巨大なかめ

巨大なかめ  AO 22897   シュリーホール 21
 

この記念碑的なかめは、キプロスにあるアマトロンテのアクロポリスの頂上に築かれていました。それは肥沃の女神アフロディテの神殿の需要のための水の貯蔵に充てられていました。ソロモンの神殿のかめは、その大きさと役割から「鋳物の海」と呼ばれました。非常に大きな容量(約44,000リットル)で、その寸法は「一方の縁からもう一方の縁までは十キュビト〔4,50メートル〕、その高さは五キュビト〔2,20メートル〕、その周囲を囲むには三十キュビト〔13,40メートル〕の縄を要し」ました。(列王第一7:23)内側もまた球根状のかたち、もしくは半球の形をもたらすために湾曲していました。
 

そのかめは力と権力の象徴である12の雄牛の表象の上に置かれました。少し小さな10個の水盤は、犠牲を洗ったり清掃に使用され、「海は祭司たちがその中で身を洗うためのものであった」ため、鋳物の海は祭司たちの清めに結び付けられています。-歴代第二4:6。

                           

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