►   ホール 2 を通ってコルサバード宮殿の方へ向かってください。

     
                           

勝利の石碑の断片  AO 2776  リシュリューホール3 
 

アッシリア人は暴力的、好戦的な民で、また残忍なことでも知られていました。アッシリアの王の一人アシュルバニパルは、敵の皮膚で覆われた円柱形の碑を自慢しました。この石碑は、アッシリアの残忍さを物語っています。碑文の側には二人の君主が向かい合い、右側の君主が縛られた手を握っています。裏側には、勝利者の王が槍で敵を押さえつけて、その頭を砕こうと斧を振り上げています。聖書は創世記2章14節でアッシリアについて始めて言及しており、モーセはその時代「アッシリアの東」を流れていたヒデケル(チグリス)について述べています。この国の名は、セムの息子の一人アシェルから取られました。(創世記10:22)ハムの孫であるニムロデは、ニネベとカラハを建設しました。この後者には今日、古代の創始者の名で呼ばれる都市ニムルードがあります。-創世記10:11,12
 

戦争は宗教と緊密に関係していました。君主たちは多くの場合、守護神と共に描かれました。戦うことは国民の関心事であり、祭司たちは戦いを助長してやみませんでした。彼らは必然的に譲渡が定められた、歩合である征服者の遺体で生活しました。しかしこの「略奪する民族」は非常に信心深い民でした。軍隊は彼らの神々の旗手の後を歩き、サルゴンは定期的にイシュタル女神に助けを求めました。預言者ナホムとゼパニヤは、この世界帝国とその首都ニネベ5、「流血の都市」(ナホム3:1)の滅びを予告しました。ニネベは確かに「荒れ果てた所、荒野のように水のない地域」(ゼパニヤ2:13)となり、預言の言葉の正確さを再び確証しています。

 
                           

サルゴン二世と高官  AO 19873  リシュリューホール 4
 

コルサバード宮殿の遺跡の発見は、イザヤ20:1で引用されているアッシリアのこの王を歴史的に顕著な地位を占める者なるべく、世俗の歴史の闇から引き上げました。長い間著名な聖書学者から架空の人物と見なされていたサルゴン二世は、今日ではよく知られたアッシリアの王の一人です。ここで彼は、一人の高官、疑いなく王子で後継者のセナケリブのそばで杖を持った状態で表されています。

 

 

アッシリア人はイスラエルとの関係を様々な文書の中で言及しています。しかし、記念碑の碑文の主要な目的は、統治の一貫した歴史を提供することではありません。

それらが年代順であることはまれです。

王の虚栄心によって、多くの場合に率直さと共に歴史的な正確さを奪うことを強いられました。

王の年代記もまた、王のご機嫌しだいで出来事や数字が巧みに操られました。

サルゴニック文書の場合がそうです。

「情報操作」が見られますが、それは新しい技術ではありません。たとえ名前を列挙しただけの主な祖先のリストであっても、しばしば軍事遠征の言及が添えられ、信頼性に欠けます。
 

対照的に、聖書の年代記筆者の正直さと真実を伝えることへの彼らの誠実な配慮は、「神の言葉」への私たちの信頼を高めます。(テサロニケ第一2:13)。

アッシリアとイスラル-ユダの間の同期の最も正確な情報は、聖書の記述に残されています。

サルゴン

     

<  レバノン杉の木材の輸送

       
   
                           

シロエのヘブライ語の碑文  AO 1310
 

鋳造がルーヴルに保存されている6行のこの碑文は、シロアムのトンネルの岩壁で発見されました。それは二つの先端に始まる水路の掘削と、その長さに関連しています。そこにはこう書かれています。「石工がつるはしを使って互いに向かい合って掘って行くとき...水は泉から貯水池まで533m流れ、石工の頭上の岩の厚さは1.8mであった。」このトンネルの長さにもかかわらず、高低差がたった32センチメートルであることから、正真正銘の技術上の偉業と言えます。
 

この地下水路は、ヒゼキヤ王の業績であると考えられています。聖書は「彼が池と水道を造って、都に水を引いた。」(列王第二20:20)と述べています。西暦前732年に、アッシリア人セナケリブの差し迫った攻撃に直面して「このヒゼキヤこそ、ギホンの水の上の源をふさぎ、これをダビデの都市の西の方にまっすぐに引き下ろした者であった。」-歴代第二32:30
 

注目すべきは、この王が「私たちと共にいるのは、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる私たちの神YHWHに信頼を置いたためであり、軍事作戦に信頼を置いたのではないということです。-歴代第二32:8

                           

 

レバノン杉の木材の輸送  AO 19888-91  リシュリューホール 4
 

アラバスター石こうに彫刻された4つの浮彫りの集合は、コルサバード宮殿の中庭の城壁を飾っていました。記述は、壮烈な規模の作業を物語っています。右から左に読み取ります。鱗片の形のモチーフで描かれた杉が山で切り倒された後、海上輸送され、次いで陸揚げ、そして木の幹の運送が続いています。サルゴン2世よりもずっと前に、ソロモン王はティルスの王ヒラムに、エルサレムにおける神殿の建設のために、この貴重な価値のある資材の提供を頼みました。-列王第一5:8、9

                           

人の顔をした翼を持つ雄牛  AO 19857-58-59  リシュリューホール 4
 

サルゴン二世はニネベに近い手の付けられたことのない敷地に、ドゥールシャルキーンに敬意を表して名づけられた都市「サルゴンの城砦」と広大な宮殿を建設しました。浮き彫りの占められた壁面を全部あわせると、全長2.5kmに達します。碑文の一つで、サルゴンはこう述べています。「私のために、彼(アシュル神)が長寿と身体の健康をお定めになるように。

                           
 

」しかし「宮殿はまさに崩れ落ち」ました。

(ナホム2:6)奉納の一年後、宮殿は放棄されます。

サルゴンは死後遺体が発見されず、息子セナケリブは事業を続行する気になりませんでした。 

これらの人頭有翼の巨大な雄牛像は、とりわけ宮殿の入り口を守っていると見なされていました。

広げられた翼は、イザヤ8:7,8を思わせます。

「彼(アッシリアの王)は洪水となって超えて行く。

彼の翼の広がりは必ずあなたの地の幅を満たすことになる。

」浮き彫りの下の部分に面した楔形文字の碑文は、サルゴン二世が「オムリの全家、サマリアを攻め取った」と明確に述べています。

-列王第二17:5,6  

アッシリア人は暴力的、好戦的な民で、また残忍なことでも知られていました

                           

ライオンを制圧した英雄

AO 19861-62 

リシュリューホール 4


 

高さが5m以上のこの彫刻は、、宮殿の主要な玄関の装飾の一つを成していました。一般にギルガメシュと見なされているその英雄は、小さなライオンを窒息させます。ライオン狩りは、王たちのお気に入りのスポーツでした。ニネベ自体「ライオンの洞」と描写されていました。
-ナホム2:11
 

祝福する精霊6の表現にも注目してください。守護者の霊は、小さな手桶としばしば命の木に関連した象徴の松かさを持っています。祝福は特別なしきたりなしに、頻繁に聖書中に言及されています。祝福式は、クリスチャン教会の宗教的な式で重要な部分に相当します。聖さん式の間に聖体顕示台で司祭が行なう十字を切る身振りは、16世紀の習慣から来ています。

 
                           

書記官タルフンピアスの彫像  AO 19222 リシュリューホール 5
 

この墓石では、書記官が母親のひざの上の子供のように描写されています。彼は狩のためのハヤブサをつなぎ止めており、筆箱が彼の前に置かれています。この作品は、エゼキエルの幻の「亜麻布をまとい、腰に書記官のインク入れを帯びた人」、「額に印を付けるために都の中を通るよう」命令を受けた忠実な人々を思い起こさせます。(エゼキエル9:2)ヘブライ語のアルファベットの最後の文字、タウはその当時十文字の形をしていました。(4節、脚注)。帰属の印(イザヤ44:5)もまた生き残るための象徴的な印の一つとなります。
 

ヒッタイトの神の小像  AO 9647   リシュリューホール 5  展示3
 

円錐形の丈の高い冠をしたヨズカのお守りは、ヒッタイト人の神の一人を表しています。それは恐らく雷の神テシュブです。金で鋳造されたこの小像は、雷の神々のシリアの小立像との類似性を示しています。小さいですが、ヒッタイト帝国の美術の特徴的な作品です。アブラハムは、彼の到着よりもずっと前にすでにカナンに住んでいたヘトの子孫(創世記10:6,15)と交渉を持っていました。エサウのヒッタイト人の妻たちは「イサクとリベカに苦々しい霊を抱かせ」るものとなりました。(創世記26:34)。カナン人は、彼らの腐敗した行為により滅びに定められた、名の挙げられている7つの国民の一つです。(レビ記18:1—30)。この民はヨラム(西暦前905年頃)の時代、まだ王たちや軍勢を有していました。-列王第二7:6 世俗の歴史の中に聖書が語るヒッタイト人の跡を見い出そうと努めてきましたが、困難でした。アナトリアでヒッタイト帝国の首都ハットゥシャシュを割り出すことを目指して言語学のアプローチがありましたが、不確かで憶測の域を脱しません。ヒッタイトの名残は19世紀の始めまで確かに存在しており、聖書だけが言及しています。

 

ハザエルの象牙細工品  AO 11489
 

シリアのこの王は、列王第一19:15で引用されています。「あなたはハザエルに油を注いでシリアの王としなければならない。」ハザエルは古代の碑文の中でも言及されています。この小さな象牙細工品の一部分は、このように聖書中に引用された登場人物に関して、歴史的な証言を提供しています。
 

アースラン タシュの象牙細工品  リシュリューホール 6   展示 2
 

ここに展示されているハザエルの寝いすの象牙細工は、ヨラムの王の時代に権力を得、イスラエルの王ヨハズのときに亡くなったシリアの王を物語っています。(列王第二8:13) 。アラム語で書かれた碑文が、ダマスカスのこの王の名前を言及しているこのアンサンブルと共に発見されました。サルマナザーⅢ世の年代記は、ハザエルに対する勝利の物語を伝えています。アモスによって語られた預言は成就しました。「わたしはハザエルの家に火を送る。(...)それでわたしはダマスカスのかんぬきを折(る)。」アモス1:4,5 。象牙の家具への使用は、預言の言葉を思い起こさせます。(アモス6:4)

                           

ハザエルの象牙細工品

アッシリアの鬼神パズズの小像  MNB 467 
 

この作品は、アッシリアのブロンズ美術の優れた証です。この混合怪物のぞっとさせる様相は、不吉な力の表現であることを思わせます。さそりの尾、凶悪な顔つき、翼と猛禽類の爪は、超自然的な世界への帰属をほのめかしています。パズズを特定する碑文が翼の後部を覆っています。「邪悪な霊の風の王」である彼は、とりわけ伝染病の蔓延の原因でした。

アッシリアの宗教的な慣行や信条は、バビロンのそれらとほぼ同様でした。政治において、宗教は重要な役割を果たしました。公式な国家元首はアシュラ神でした。大英美術館に展示されているアッシリアの公印には、3つ頭のアシュラ神が描かれています。三つ組の神が存在していたように、ラマシュ、ラバス、アーハズのような三つ組の鬼神もいました。最初の鬼神は、初子を犠牲者として選びました。

 

       
                           

ラマシュの夫、パズズの小像は初子を守るため妊娠した女性の枕元にぶら下げられました。頭の頂にある輪に注目できます。フランス人の医師で、学識豊かなジョージ・ルーは、メソポタミヤの医師に関してこのような指摘をしています。「彼らの診断と予想は迷信と臨床医学の正しい観察の微妙な混合である。それら哲学的な概念に基づいて、理性的な解釈の探求の扉を閉めつつも技術を磨いた。」
 

イエスのもっとも大きな奇跡の一つは、彼が普通の身体的病気を癒したのと同じように悪霊が取り付いた人々を救出することでした。マタイ4:24は、人々が 「悪霊に取りつかれたり、てんかんの人を」連れてきたと報告しています。イエスによってこれら二種類の人々が癒されたことは興味深いことです。以下の作品もご覧ください。(同じ展示ケース): 悪霊  AO2491  AO 1000  ラマシュに対するお祓いの板  AO 22205

                           

セナケリブの年代記の断片  AO 7747    リシュリューホール 6  展示 4
 

サルゴン二世が王として即位した頃、メロダク・バラクは自らをバビロンの王と宣言していました。メロダク・バラクが「手紙や贈り物」(イザヤ39:1)を送って、ヒゼキヤ王の健康に対する気遣いを示したのは、エラムの支持を得てアッシリアに対する連合を結ぼうという下心があったからのようです。自分の宝物庫をカルデア人の使者に見せるというユダの王の行為は、やがてすべての財宝がバビロンに運ばれるとして、預言者により非難されました。-イザヤ39:2-7
 

聖書は「アッシリアの王セナケリブがユダの防備の施されたすべての都市に攻め上って、これを奪いはじめた。」と伝えています。(列王第二18:13)。シカゴのオリエント研究所や大英博物館に保存されているプリズムにあるセナケリブの碑文は、ヒゼキヤがたくさんの「金や銀の貢ぎ物」を支払ったことを確証しています。そこにはこう書かれています。「ユダヤ人のヒゼキヤに関しては、私のくびきに服さなかった。私は46の都市を奪った。かごの鳥のように、私はエルサレムを包囲した。」しかしながらセナケリブの年代記は、彼がエルサレムを占領した際にユダの王が投獄されたとは述べていません。このことはアッシリアの軍隊の精鋭たちが、一夜にして滅ぼされたという聖書記述を確証する無言の告白です。聖書はこれが神のみ使いの業であったと説明しています。-列王第二19:35

                           
 

バビロンの復元を祝った青銅の浮き彫り  

AO 20185 

 ホール 6  展示 4

エサル・ハドンはセナケリブの後継者で彼の末の息子でした。彼の碑文の一つは、セナケリブがその兄弟たちによって殺害されたという聖書の記述を確証しています。(列王第二19:37;イザヤ37:38)彼はその支配の初期にバビロンの再建を始めました。

エサギラの神殿を修復し、こう宣言しています。「私はバビロンを新たに建て、拡張し、堂々たるものとした。」この文書は彼の息子マルドゥクの神殿にエ神の像が戻ったことを祝っています。

 

                           

歴代第二33:11は「アッシリアの王に属する軍の長たちはマナセを捕らえ(...)バビロンへ引いて行った」と述べています。この言及は、エサル・ハドンがバビロンの都市の再建者であることに誇りを持って自慢していたという事実と調和します。

                           

アシュルバニパルの軍隊の遠征のプリズムF  AO 19939 

リシュリューホール  6 展示 4
 

大規模な人数の強制移送で知られている(エラム、ティルス、エジプトに対する遠征の記述がこの文書に見い出されます)アシュルバニパルは、その文学的センスでも知られています。

発掘調査により、およそ2万2000の粘土板や碑文の収蔵された一大図書館の存在が明らかにされました。エラムの首都スサの征服は、このプリズムに言及されています。この出来事はエズラ4:10(脚注)のこの王「大いなる尊いアセナバル」を識別することを可能にしています。
 

書庫の粘土板  K 7593     (同じ展示物の中)

洪水の記述   K 8517(325)   

大英博物館に保存されているこの粘土の断片、王の書庫のための記述は、ギルガメシュの叙事詩の11番目の粘土板の複数の断片の集合から復元されています。

 

エラム人の流刑者たち浮き彫り

エラム人の流刑者たち浮き彫り   AO 19906-07    リシュリューホール  6
 

この浅浮き彫りの集合(3,5-10)は、アッシリアの最後の偉大な君主アシュルバニパルの宮殿の壁飾りです。諸都市の征服は、民間の住民の政治的な抑留をもたらし、貴重な労働力であった民に反乱の意志をなくさせました。聖書は敗北した国民の強制的な移動を伝えています。
 

このようにティグラト・ピレセル三世は「ガリラヤのガラアド、ナフタリの全土の住民をアッシリアへ流刑に処し」ました。彼はプルとも呼ばれ、聖書中で言及されている最初のアッシリアの王です。彼はメナヘムの支配下にあったイスラエル王国に侵入し、メナヘムはアッシリア軍を撤退させるために年貢の銀1000タラントを支払いました。-列王第二15:19,20

                           
                           

後継者のシャルマヌエセル五世は「すべての国に対抗して登り」、首都サマリアを攻囲しました。しかしながら、サルゴン二世が勝利を得たようです。聖書は、アッシリアの王が「イスラエルを流刑に処した。彼はハラハ、ハボルそしてメディアの諸都市に彼らを住まわせた」と述べています。(列王第二17:5,6) サルゴンの年代記は、270—290人のイスラエル人の流刑に言及しています。恐らくこの王が、「クタ...バビロンから[人々]を連れてきて、イスラエルの子らの代わりにサマリアの諸都市に住ませ」ました。列王第二17:24
 

サマリアの反逆の惨たんたる最後は、預言者ホセアによって予告されていました。「サマリアは罪科のある者とされる。...剣によって彼らは倒れる。その子供らは打ち砕かれ、妊娠した女たちは引き裂かれるであろう。」(ホセア13:16)。歴史はアッシリア人がそのように残忍に振る舞ったことを示しています。
 

戦車の上のアシュルバニパル王とエラムの捕虜たち  AO19904(10)

                           

   ロトンダを通りながら右へ曲がり、ホール7のほうへ進んでください。

         
 

隠し風の壺  Sb 2723   リシュリューホール 8  展示 2   =>
 

この隠し風の壺(18)には、ケースの品物すべてが入れられていました。販売証書を含む幾つかの文書は焼き物の壺に収められていました。エレミヤ32:14は「これらの証書、この買い受けの証書、すなわち封印されたものと、他方の開封された証書を取り、あなたはまた、これを土の器の中に入れなければならない。それが多くの日の間保たれるためである」と述べています。また使徒パウロは、彼の宣教が「土の器の中の宝」のようだと述べています。-コリント第二4:7、脚注

 

 

敗北者を踏みつけて立ったマニシュトゥスゥの像  
ホール8  13
 

石灰岩のこの彫刻像の台座は、敗北した敵の横たわった身体を踏む王が表現されています。彼らの都市の名は台座に刻まれています。

 

ナルンディ女神の彫像

ナルンディ女神の彫像  Sb 54  リシュリューホール 8
 

この人物像は、珍しい崇拝のための彫像の一つです。三組の角冠と、段状に重ねられた羊毛に似た毛束の衣装のスタイルは、シュメール人が起源です。女神の足元には戦争と性の女神、イナンナ女神の動物象徴が花のロゼットに隔てられた二頭のライオンに見られます。この崇拝のための彫像は、古代近東の神殿における「諸国民の偶像」(詩編135:15)の重要性を思い起こさせます。聖書中における彫刻像に関する記述のひとつは、まことの神の箱の前で地に倒れていたカナン人の神ダゴンに関するものです。(サムエル第一5:1-4)唯一ヤハウェだけが至高の神です。(詩編83:18)。
 

「神々の中にだれがあなたに並ぶ者がいるでしょうか?」とモーセは歌いました。(出エジプト記15:11)。これら他の神々はただ劣っているだけでなく、人間が考え出した産物であり「人の手でこしらえた、見ることも聞くことも食べることもできない木や石」(申命記4:28)です。イスラエルの神は、その民に全き専心を要求しました。-出エジプト記20:3,4
 

これら偽りの神々の崇拝者たちは、「神の真理を偽りと換え、創造した方より創造物をあがめてそれに神聖な奉仕を捧げた者たち」と示されています。(ローマ1:25)使徒パウロも、悪魔を「この事物の体制の神」(コリント第二4:4)と指し示しています。「この世の支配者」ですから、彼こそが無数の偽りの神々の発案者です。(ヨハネ12:31) 偽の神を崇拝することは、全能者に対する歴然たる不敬な行為です。イエスご自身「あなたのエローヒム、ヤハウェの前でひれ伏しなさい。唯一彼に仕えなさい!」と言われました。 - ルカ4:8

                           

 

幾何学と動物模様の皿  Sb 3153    リシュリューホール  7   展示 2(14)
 

十字とそれらの変形は、多くの文化の中で非常に早くから出現しています。ここでスワスチカ、ひじ型に曲がった支線でなる鉤十字に注目してください。この象徴の意味は政治的というよりもむしろ宗教的です。考古学者のチャイルドによると「印章や飾り板によく見られる鉤十字や十字形は、最初期の先史時代のバビロニアやエラムの場合と同様、宗教的もしくは魔術的な象徴である。」スワスチカは、当初登る前の太陽の運行を表し、サンスクリットの意味によると「福利をもたらすもの」の象徴の一つでした。これはまた、ジャイナ教の信奉者にとっては9番目の聖人の象徴でもあります。鉤十字は、ベツレヘムにあるナチビテのバジリカのモザイク模様の作品に見られます。

                           
                           
                           

十字はバビロンにおいて太陽神の象徴でした。同じ象徴は、周りを囲む輪がなく、直角に交差した長さの等しい4本の支線だけの状態でも存在します。それは「太陽輪」として特別な崇敬を受けました。タンムズ神は、頭に十字の付いた帯をして表されました。キリスト教以前の時代の宗教的シンボルとしての十字の使用は、恐らくほぼ普遍的と見なされました。中国、アフリカ、アメリカなどあちらこちらで見い出されます。この象徴はスカンジナビアでも、ブロンズ時代にさかのぼる岩壁に掘られた彫版に見られます。キリスト教徒のシンボルであるキリストの磔刑の像は、ローマカトリックにそれが浸透するずっと前からメキシコで崇拝されてきました。

古代イスラエルで不忠実なユダヤ人が偽りの神タンムズの死を嘆いた行為は、「嫌悪すべき事柄」に値しました。十字は、ニムロデとも同一視されているこの神の象徴でした。ですから古代バビロンの宗教的影響は、政治的力よりもっと多くの力と持続性をもって数多くの人々や国に広がりました。

クロスとかぎ十字

   Bj 2404       AM 778       AE, ER 2  
                           
  <  MND 312 
 
Sb 3181 > 
 
       MI 674      

続く作品中のスワスチカにも注目してください。
 

板状のフィブラ(表)  Br 1882    シュリー 1er  ホール32 展示  M2

脚付きの杯とその蓋   CA 1822  シュリー1er カンパーナホール 40 展示  18

脚付き杯の蓋?  CA 1840  シュリーホール 40 展示 9

オエノコエ AM 778   シュリーホール 40展示 8

ペンダント  Bj 2404   ドゥノン Rdc エトルリアホール 19 展示 3 
 

幾世紀の時を経て、約400種類の十字架が生まれました。輪頭十字は、エジプトにおいて生命の象徴でした。アンク十字架は永遠性を連想させます。ギリシャ十字架は、長さの等しい枝が中心で交差しています。カトリックの大司教の十字架は二本の棒、教皇の十字架は三本です。アートワークギリシャ文字(XP)はキリストを表すモノグラムと同一と見なされています。二本の梁が垂直に交差した神秘的なタウの形の十字架は、古代カルデアにその起源を持ちます。
 

ギリシャ十字架   Sb 3181   リシュリュー Rdc  ホール 7 展示 2 (1)

彫刻のほどこされたフリーズの4つの断片  E14747   ドゥノン中二階ホールA

アルメニアの十字の装飾された墓石  RF 3083  ドゥノン中二階ホール 1

マルタの十字のあるつり香炉  MNC 1496     ドゥノン Rdc  28 ホール展示  1

シャンセルの敷石  MND 312  ドゥノンRdc ホール29

天の栄光  Inv 6680 (教皇の十字架)   シュリー2è ホール  34

聖ブルノ  Inv 8036    (大司教の十字架)    シュリー 2è ホール 24

聖デニスの聖壇画  MI 674  (T型の十字架)  リシュリュー 2è ホール3

カルヴァリオ  RF 1962-1  (T型の十字架)    リシュリュー 2è ホール5

以下もご覧下さい。マルシヤスの死刑  ギリシャ語のスタウロスとクシロンノ字義は、一本の杭もしくは梁材を表しており十字架という考えは含まれていません。

 

 ►    ロトンダを再び通って、展示室10へ進んでください。

                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           
                           

 


Carte メソポタミアダリウスの宮殿